つるぎ

「おまえに、なにがわかりますか。」
 細められたその目の静かな剣呑さに、一瞬怯んだ。
 戦場に在る時に見る戦人としての非情さとも全く違う其れは、多分、激情と呼ぶのが一番近いのではないか。
 燐火の如きに光る青の双眸が、射貫くように真直ぐ自分を見据え来る。
 見据える者の得物は鞘に収まったままその横に置かれあり、手に取られてさえいない。 
 だが、眼前に白刃の切っ先を突きつけられているようなその気配に、己が身を断ち割られるような錯覚さえして、思わず身震いしそうになった。
 不用意にそのことに触れてしまったことを、今更ながらに後悔する。



 そろそろ合戦の支度が始まる頃、敵状を見て来よ、と、信玄から申し付けられて越後入りした。
 敵状視察以外のことは命じられていないから、今回の仕事は結構気楽にやれそうだ、などと考えながら、佐助は既に幾度か行き通った山城へと向かう。
 無論忍としての仕事だから簡単な訳ではない  なればこそ当然、忍び込んだ己の気配を、同じ忍の彼女の方も気付いているだろうと思ったのだが、然し、今日は彼女の気配の方をこそ感じなかった。
「あ、つまり、上杉の方もそろそろ戦支度ってことか。」
 声にもならない独り言、つまり彼女も武田の敵情視察に出されているのか、と思い至る。
 彼女がいない間の謙信の警備に当たるのは、上杉軍の忍び隊である雪組。
 彼等も確かに優秀だが、突出した技量のかすがや佐助のような忍びとは格が違うのだから、佐助が忍び込んでも易々と見つけ出すのはそれなりに難しい筈だ。
 何より、彼女と顔を合わせないなら、仕事自体は格段に楽だろう。
 自分を見ればまるで条件反射のように怒気を露わにし、不機嫌この上ない様子になる彼女を思い出し、然し、いざ顔を見られないとなると無駄に寂しい気持ちにもなるのは、若干の惚れた弱みか。
「……さて、と。」
 城に近い木の梢で、木と同化するように気配を隠しながら内部の様子に探りを入れる。
 戦支度の頃であるのに兵たちにも特に慌しい様子がないのは、この信越の戦が何度も繰り返されていることに、ある意味慣れてしまったからか。
 尤もそれは、武田の方も然して変わりはしないだろう。
 己すら、慣れてしまったからこそ、こんな定位置のような場所から「いつもどおり」眺めているのだ。
「あいつがいないなら、いつもよりちょーっと中まで入っても大丈夫かね。」
 少し思案した後、佐助は梢を飛び降り、囲いの塀を越えて内部に潜り込んだ。
 潜り込んでみて、改めて思う。
 兵の様子は、外から見たよりも尚、拍子抜けする程穏やかで、これがホントに戦前の軍の様子かねぇ、と、むしろ佐助の方が心配になった。
 これじゃ特に探るような内容もないよう、などとうっかり下らない駄洒落でも呟きそうになった視界の隅に、ちらりと白いものが入る。
 一瞬緩みかけた気を引き締めて気配を殺したのは、それが何かを即座に理解したからだった。

──上杉謙信

 城内にいる時には僧侶の法衣を纏うことが多い、というのは、何度も見て知っている。
 時として、たおやかな比丘尼のようにも見えるその様子からは、あの「戦場の軍神」を想像をすることは難しいかもしれない。
 消した気配はそのままに、佐助はふと考えた。
 人には二面性があるというが、かすがが心酔してやまないのは、あの軍神か、この高野聖か。
 かすがは、忍びとしての技量はずば抜けていても、その心のありようは余りに優しく真っ直ぐで、忍びに向かないことを、佐助は同じ里にいた頃からずっと感じている。
 そのかすがが、自分を殺し、自身を追い詰めてでも仕えようと思った上杉謙信という存在は、果たして。
 廊下を渡り私室に入る謙信を確認し、佐助もそれを追うように屋内へ忍び込んだ。
 屋根梁に張り付くように四肢を落とし、天井板の細い隙間から下の様子を伺えば、文机の上に硯と筆。
 さらさらと幽かに耳に届く衣擦れに似た音は、何か文をしたためている音であろう。
 謙信が、信越の戦に他所の軍を立ち入らせることなど絶対にない、ということは経験として既に知っているが、だとすれはこの時期に書くような文は誰に宛ててのものなのか、些か見当がつきかねた。
 できれば内容を伺い見たいが、文面を謙信の頭巾が遮り、腕の動きから読み取ろうとしても、それすら狭い視界の外になってしまう。
 もどかしく思いながら暫しの刻の後に、かた、と筆を置く音がし、続いて、しゅしゅ、と少し高い紙擦れの音がした。
 その音が止み、一呼吸置いたほどの間の後。
「たけだのしのび、そこにいますね。」
 声が、気配を殺している筈の自分へ真っ直ぐ向けられる。
 途端、心の臓が口から出るかと思った、のは大袈裟な物言いかもしれないが、それに近い心持ちになったのは確かだった。
「……軍神殿直々の御指名とあっちゃ、姿見せないわけにもいかないよなぁ。」
 難儀そうに肩を竦めると、そうひとりごちる。
 戦であれば敵の将だが、ひとまず今はまだ戦の中にない状態。
 謙信とは部屋の対角の位置に片膝を折る形で、天井裏から煙の如く姿を現した。
「これを、かいのとらに。」
 傍目には忽然と現れたようにしか見えないだろう佐助に、然し謙信は何ら動じる気配もなく、封された書状を差し出す。
 あらら恋文ですか、と、口を開きかけて慌てて黙ったのは、言葉に出す前の佐助の言葉を読んだように、謙信が笑みを浮かべたからだった。
 その口箸の角度が上がる分、部屋の空気が下がるような笑みを。
「はいはい、確かにうちの御大将に届けますよ、と。」
 それでも何でもないふうを装って受け取ることができたのは、佐助だからだろう。
 手の書状をまじまじと見ながら、何のことはない、武田と上杉が戦の度に引き分けなのは、大将同士が内応しているからじゃないのか、と呆れたように考える。
 うちの旦那も俺も、あんたのとこのあいつもひっくるめて、あんたらの逢引に付き合わされる人間の身にもなって欲しいよね全く。
 ましてや俺は好きで戦忍やってるけど、あいつはそうじゃない。
「…ねぇ、軍神さん。あんたはあんなに強いんだから、わざわざ剣なんて要りはしないだろ? 」
 戦場でもなく、棘しい雰囲気のない城の中であった故につい零れ出た一言は、佐助に大きな後悔をさせる結果となった。



 以前、戦場で合間見えたときにも、同じようなことを言った覚えがある。
──解放してやりなよ、色々なやつをさ。
 そうだ、あの時と同じだ。
 あの時は返る言葉はなかったが、これと同じ剣呑な色を目に宿して、射貫かれかねない、と肝を冷やした記憶が蘇る。
「おまえに、なにが?」
 謙信は再び唇を開き、佐助へ向けて答えを求めぬ問いを発した。
 冷や汗の流れ出そうな沈黙のみがある。
「わたくしがつるぎをひつようとするいみをりかいできぬのならば、おまえになにをかいうけんりなどありません。」
 ほんの短い沈黙だったが、それはひどく長くも思われた。
 沈黙を破るように静かに謙信が紡ぐ言葉に、再び咽喉元に本物の白刃の冷たい切っ先を突きつけられたような錯覚を起こし、小さく息を呑む。
 自分と自分の仕える者との関係とは違う理がそこにあるのだ、と、佐助はおぼろに理解した。

 ならば、ならばもう、彼女を、彼女等を。
 哀れむまい。

 好意という衣を着せた哀れみでかすがを見ていた己に気付き、それを悔やんだ。
 彼女の怒りは、佐助が考えるよりもずっと深い何かがそこにあるということを、軽んじ見ていた己に対してのものなのだ。

「たけだのしのび。」
 謙信がもう一度、佐助を呼んだ。
 剣呑は一瞬の内に影を潜めたのか、もう其処には微塵の気配もない。
「……それでもおまえがあのこをおもっていることには、かんしゃしますよ。」
 耳に届いたそれが、余りに儚く頼りなげな声だったのは、佐助の聞き間違いだったろうか。

 最早それ以上の会話もなく、佐助は一度頭を垂れて其処から姿を消した。