戦場

  陣から川中島を見渡す。
 秋闌ける美しい季節を迎える此処、木々も花々も、まるで浄土を描いた錦絵かと思う程美しく。
 けれど其の美しい場所は、数刻もすれば、阿鼻叫喚に血臭漂う凄惨な戦場となる。
  
 隔たる向こうに、あの男の気配。
 其れを感じ取るだけで、血が沸き立つような感覚が身体を奔る。
 こんなに遠く、こんなに近く。
 身体にある感覚が全て、其れだけを知覚しようとする。

 いけませんね こころを しずめなければ

 己に言い聞かせ、静かに呼吸を深くすれば、冷え冴えた空気が肺を満たした。
 其れが奔り巡る血の温度を下げる。
 唯、緩く握る掌の中だけは、其の温度を逃がせずにいた。
 自覚すれば、己の深いところで、じり、と熾き火のようなものが点る。
 掌に目を遣った。

 此の手は、求めるものを知っている。 

 明けの頃を待つ。
 此の、濃い朝霧が晴れた時、妻女山に在る筈の我が軍が目の前に在れば、流石のあの男も胆を冷やすだろうか。
 其の想像に、僅かな笑みを浮かべる。
 沸き立つ血とは別にまた、浮き立つ心。
 戦を楽しいと思うのは、こういう時。

 陽が昇る、程無く霧が晴れていく。
 互いの軍が其の陣容を現した。
 自方は、相手の謀を呑んで裏を掻くべく全兵を挙げ進撃し、向こうは崩れた策を立て直して迎撃する為に陣形を変えていく。
 そう、此の千変万化。

 敵味方、兵達が入り乱れる。
 一度は相手を出し抜いたが、もぬけの殻にした本陣を襲撃した背後の別働隊が、体勢を立て直してやって来る前に、事を成さねばならないだろう。

「謙信様。此の侭では、挟み撃ちをされるのは時間の問題。」
 陣中、馬上に在る己に、傍に控える美しい忍が、声を掛けた。
 自分の傍に在る者の中では、恐らく尤も、己を理解してくれる者。
 然し、童女のように清らな心、そして余りに頑なで余りに優しい気性が故に、己が此の戦に抱く望みは理解しえまい、とも思う。
「まだです。」
 兵が逸らぬよう、熟さぬ機を窺って忍の言葉を制した言葉。
 其の実、誰より其の機を求めているのが己であることは明白であったのだが。
 目を閉じ、状況を読む為に、神経を研ぎ澄ます。
  
 あの男の気配。
 其れは先刻よりも、更に強く肌を刺すものになっている。
 他の誰にわかるものでは無い。
 彼方此方の向き合う意識の突端が、其の切っ先を付き合わせた瞬間。

 どくん

 血の喚き。
 心の臓が一際強く打った。
 其の打ち鉦が、一気に駆け上がる感覚。
 脈打つものが、眉間に眩暈を齎す。
 全ての血が、最早猶予無く熱を増していく。

 熾き火もまた、か黯く起ち昇り始め。

 号令一声。
 全軍撃って出る。
 中央突破の命を下し、其の先陣に馬で駆け出す。

 どくん どくん

 強い、激しい拍動。
 咽喉から拍出しそうになる程の其れ。
 己が耳に其の音が聞こえているのは、在り得ない息苦しさを覚えるのは、或いは錯覚なのか。
 馬上、吐くなら吐けと言わんばかり、気勢の声を上げる。 
 疾駆する馬の、土を蹴る振動と、体内の拍動が重なり。

 敵味方無く有象無象に入り乱れる戦場。
 其処に道の在ろう筈は無い。
 だが、駆ける先は地が割れるように真っ直ぐ通じていた。

 唯ひとりの男の許へ。

 敵伝令が、己の一騎駆けを陣中幕屋に座す其の男に報告した。
 わかっている、という表情をした男が、其の伝えに大きく頷く。
「よかろう、来るなら来い。武田の流儀にて、盛大に持て成してやろうぞ。」
 其の遣り取りが見えたわけではない。
 然し男もまた、此れを待ち望んでいることを、何故己は知り得るのか。
 わからない。わからずともよい。
 知っているということこそが、何よりの真実。
 其れ以上の何があろう。

 そして、互いが互いの姿を視界に収め。
 
「たけだしんげん! しょうぶ!」
「望むところよ!」 

 雪氷の居合刀が、火焔の軍配と切り結ぶ。
 激しさに、周りの兵達は気圧され散り散りとなるばかり。
 掌に切り結ぶ衝撃が伝わる度、激しい拍動と熾き火が、めらと燃え、じんと疼きながら、増していく。
 拍動が身体の上を支配する熱ならば、熾き火は身体の下を支配する熱であった。
 思考は既に意識するもので無く、最早ひたすら呼応し合うように得物を振るう身体。

 何度斬り交えたか。

「きょうのところはこれまで。」
「うむ。」
 告げたのは己。
 頷いたのは相手。
 当然の約定のように其れは交わされた。

 再度馬上へ。
 そして、振り返ること無く駆け去る己。
 振り返る必要が無いのだ。
 満たされたのだから。


 
 誰も理解し得まい。
 戦を強さの指針とする快楽、命賭けて強さを量る快楽。
 そして、あの男とでなければ齎されることの無い、 おんなのししむらもつうつわ が濡れ雫る程の快楽など。



 何れは、其れも終わる時は来る。 
 だが、終わることさえも望む快楽は、戦場でなければ存在出来ない。

 其の瞬間の為にだけ、

 ころしあう わたくしたち