雪
山路を歩く二人連れを、突然の雪空が遮った。
例え穏やかな天気であっても、見る間に空模様が変わるのは、山の空の常。
忽ちの内に、駆け込んだ小さな山小屋で吹雪を凌ぐことを強いられる状況となった。
「大丈夫なのか。えらく吹雪いてきておるぞ。」
「心配するな。こういう空は長くは続かん。慌てず腰を据えて待つが肝要よ。」
なりの小さな少年が、急変した空模様を心配げに尋ねれば、獣にも喩えられる体躯を持った偉丈夫が、囲炉裏に火を熾しながら答えを返す。
手慣れた様子で熾される火は、忽ち小さな小屋の中を照らし、暖を取る温度をもたらした。
明かりと暖かさに人心地がついたのか、二人は火を挟んで互い正面に座る。
「吹雪が収まれば山を降りるとしよう。それまで暫し体を休めるがよい。雪山を下るは案外しんどいからのう。」
言いながら、泰然とした様子で、偉丈夫はその場に寝そべった。
どうせ山を降りた後の方がしんどいのだしな、と、僅かに苦笑したのは、今回は里に置いてきた、我が子のように手を掛けて育てている若者が、偉丈夫の身を心配する余りどれほど騒々しく周りに迷惑を及ぼすかを想像してのことであろう。
手枕に目を閉じた威丈夫からは、程無く、眠りに就いたのであろう静かな寝息。
座ったまま、重たげに吹き荒ぶ風の音を聞いていた少年は、初め、寝ずの火の番をしようと考えた。
が、偉丈夫が手馴れたように熾した火は、其の時もう簡単に消えてしまうような火勢でもなく、これなら心配も要らんか、と、ぼんやり火を見つめながら、己もとろとろと催してきた眠気に意識を任せる。
時折焚き木が爆ぜる音、引っ切り無しに吹雪く風の音以外は、時の流れを感じさせるものもないまま、やがて幾時過ぎたのか。
不意に、冷えた風に撫でられたような寒気で目を覚ます。
寝入っていつしか横臥えていた身体のその首を、囲炉裏の方に向ければ、視界にあるのは幽かな明るさと暖かみだけを残した囲炉裏の焚き火。
雪はらむ重たい風の音もまだ止まず、このままでは火が消えて冷え切ってしまう、と薄ぼんやり少年が思った其の時、仄暗い視界の中で何かが動いた。
それをよく見ようと、眠い目をこじ開けるように開いて見れば、囲炉裏の向こう、威丈夫の首辺りに、白い絹布のようなものが巻き付いている。
否、絹布のようなものと思ったそれは。
しろいおんな であった。
其れ、は、偉丈夫の首にそっと手を当て、唇で息を吹きかけるような、耳元に何かを囁くような仕草をしていた。
ありうべからざる其の様子に、何事か、と途端に意識がはっきりしたが、身体は雁字搦められたように一向に起きられない。
其の上、しろいおんなの唇がひとつ動くたびに、小屋の中の暖かみが失われているように思われて、少年は恐怖を覚えた。
やがてしろいおんなは、偉丈夫から其の絹布の如き身をゆるり起こして離れると、今度は少年の方へ音もなく近付く。
身動ぎひとつできない身体は、震えることさえできない。
少年の枕元に立った しろいおんなは、柳がしなるように腰をかがめると、少年の顔を覗き込んだ。
あれはこの世のものならぬもの、見てはならない、と必死に目を逸らそうとするのだが、しろいおんな がそっと其の手を伸ばし、少年の首に触れると、其れまでどうしても動かなかった体が、頭が、目が、勝手に、しろいおんなを見ようとする。
ついに真っ直ぐ視線を合せてしまえば、逆さま真正面、しろいおんなの顔が間近に降りてきた。
雪のような白い肌と衣、闇のような黒い髪、氷のような青い瞳、そして、首に触れる手の冷たさ。
其れは到底、人の世のものとは思えなかった。
──……ゆきおんな、だ
以前に都へ行ったとき、名高い連歌師が、越の国で美しい雪女に会った、という話をしていたことを思い出す。
本当にいたのだ、と唐突に奇妙な感慨が湧いた。
恐ろしいが然し、これは確かに美しい。
魑魅魍魎が己を取り殺そうというこんな時に、いや、こんな時だからこそ、少年の生来の図太さが顔をもたげたのかもしれない。
魅入られるというのはこういうことか、と、しろいおんなの顔を見つめ続ける少年を、しろいおんなもまた、静かに見つめていた。
「……おまえはつれてゆかぬ」
やがて、しろいおんなの唇が動き、冷たい吐息を含んだ玲瓏と鳴る声が、雪の降る様の如く少年の耳に落ちてくる。
しろいおんなの唇から零れ落ちる言葉は、凍るように冷たい。
然しそれは柔らかく、まるで雪の中で眠りに落ちる時のような、危うい幸福感を少年の内にもたらした。
「あのおとこは いずれわたくしとみちゆきをともにする けれど おまえはとしわかい ゆえに おまえはつれてゆかぬ」
しろいおんなが、そう言って少年の首から手を離す。
取り殺されないことを安堵した少年は、然し同時に、其れと同じ程の落胆を覚えて戸惑った。
何故そんなことを思ったのだろう、と自分自身に問いかけたが、戸惑いが大きくなるばかりで、答えらしい答えはついぞ見出せずに終わる。
そんな少年の心内を知るや知らずや、しろいおんなは、しなる柳が戻るように屈んだ上身を起し、囁くように言った。
「こよいのことは だれにもいわぬこと いえば おまえをあやめねばならぬ」
それは、最初に感じた恐ろしさを含み、有無を言わせない響きを持って少年の耳に届き、身を震わせる結果となる。
だがその震えで、少年は身体の自由が戻っていることに気付いた。
弾けるように跳ね起きて、辺りを見回してしろいおんなを探したが、その姿は雪が解け消えた如く、最早何処にもなく。
安堵と落胆と戸惑いは残ったままだが、急いで偉丈夫の息を確認する為に囲炉裏端を回り込んだ。
冷えてはいたが、そこには穏やかな寝息があり、少年はほっと胸を撫で下ろす。
消えかけだった焚き火が思い出したように赤く燃え立ち、明るさと暖を取り戻した。
何事も、なかったかのように。
小屋の外の吹雪は峠を越し、いつの間にか遠ざかっていた。
天下分け目の戦いを制し、この国を平定した家康が真っ先に向かったのは、上杉謙信のところであった。
「そなたが、かちましたか。」
家康の報せを聞くと、謙信は何かを思うように目を閉じた。
その謙信をじっと見ていた家康は、暫しの逡巡の後、意を決したように口を開く。
「軍神殿、わしと……いや、わしたちと一緒に国を作って下さらないか。」
言葉に力をこめて、切実な響きを持って。
拳を握っているのは無意識か。
「わたくしは、すでにこのじだいのながれから、とおのいたみのうえ。なにをいまさらできることがありましょう。」
返る謙信の答えは、穏やかな否定であった。
「とらのおらぬいくさば、とらのおらぬてんか……わたくしは、とらとたたかうためにこそ、いくさをほっする。かようなこころもちのものが、そなたのめざすよきくになどつくれるとおもいますか。」
戦のない時代に、戦いを求める自分は必要ない。
謙信はそう言っているのである。
家康とて、謙信の其の意は充分過ぎる程に理解している。
している、が。
「わしは……わしは昔、雪女に逢うた。」
握っていた拳を緩めて開きながら、家康は話し出した。
家康の話の切っ先が変わったのを、謙信は目を閉じたまま聞く。
「取り殺されるかと思ったが、あの時、雪女に連れて行かれずにすんでよかったと、本当に思っておる。死なずにいたからこそ、今こうやって願いを叶えて、新しい国造りができるのだ。」
生きて、生き生きて今があるということを、強く実感しているのだろう熱っぽい口調は、然し其処で不意に途切れた。
「……だが、或いは、連れて行って欲しかったと一抹願ったのも、本当だ。」
声をひそめるように、思い秘めたものを明かす静けさに取って代わる。
「なぜいま、それをいうのですか。」
謙信が、家康に問いかけた。
だがその問いは、既に返る言葉を理解しているふうでもあった。
「同じ道行きを行けぬと、雪女は言った。あなたは……あなたはあの雪女に、とても、似ている。」
「みながそなたをひつようとするじだいになってから、それをいうのですか。」
細い溜息をついた謙信の、その瞼は今以て閉じられて、家康を見ないようにしているかのようである。
その謙信の姿に、しろいおんなの姿が重なった。
それでは いまさら あやめられぬ
耳には聞こえぬ玲瓏の声が、吹雪の風のようにそう言っている。
家康は、その声を打ち消すが如く、切々と声を上げた。
「あなたと共に歩くのはただひとりなのか。あなたと同じ道行きを行けるのはただひとりなのか?」
その言が曲がればいい、曲げられるものならば、と願って懸命に言い募る先の答えを、然し家康はもう知っている。
あのとき、しろいおんなはこう言ったではないか。
「……わたくしは、あのおとことみちゆきをともにする。そなたはつれてゆかぬ。」
謙信が、瞼を開いた。
其処には、記憶するしろいおんなの、氷のような青い目。
家康はもう、項垂れたように俯いて、言葉を発しなかった。
わかっている。
あの時も、そして今も、あの男を選ぶという事実こそ、己の最も願った存在のありようだということ。
「とらのたましいをつぐものよ。おいきなさい。そなたはいき、そしていかねばならぬのです。そなたをひつようとする、このくにのために。」
諭すように紡がれる謙信の言葉は、穏やかに優しい。
その言葉に、ゆっくりと家康が頷いたのは、今暫くの時をおいてからであった。