あめしずる

「あ、降っとる。」
 閉じられた障子の向こうを、窺い見るように聞き耳を立てれば、庭の土を、木々を、敷石を、余さず叩く雨音がする。
 微妙な空模様だと思っていたから、やっぱりなぁ、と呟いて、床の中に寝そべったまま頬杖をついた。
 雨というのは、自分の心持によって、その印象の様相を変える。
 悲しければ、流れる涙のように、嬉しければ、さんざめく笑いのように。
 そして今降る雨は、静かで穏やかな、優しい雨だ。
「貴様の好きな鍛錬とやらも、今日は休みだな。」
 頬杖をつく頭上から、雨ならぬ声が降る。
 振り仰いでみれば、白皙の、端正な顔を見上げる形。
 こちらに目をやることもなく、同じ床の中で半身起こした格好のまま、何やら書頁を繰っている。
 声に何処か皮肉の色が入っていたが、こういう物言いが、この声の主の気性であり特性であるということはとうに理解していたので、気にするようなこともない。
 ふと、思考が其処へ飛ぶ。 
 全く最初から、この通りの男だった。
 己の信奉するもの以外を世の事象として見做さず、それとそれ以外の認識を持たない男。
 然しその隙間に、ほんの僅かながら気に留めるものを持っている、と知ったのは、その隙間に、思いもよらず自分が含まれていたことを知ってからである。
 そんなことを考えながらじっと見上げていると、見られていることが鬱陶しくなったのか、吊り上がり気味に細められた視線がこちらを向いた。
「たまに降る分にはいいんだが、梅雨時なんかは体が鈍りがちになるから困る。」
 向いた視線に肩を竦めてそう言えば、ふん、と鼻白むように返る、返事にも満たない返事。
 それを見て自分の口許が笑う形に動いたのを、こっそり隠すように、枕へ顔の下半分を伏せる。
 これで意思の疎通が為されているのかと、傍から見たら疑問に思うかもしれないが、自分たちにとってはこれすらいつもどおりのことであった。
 相変わらず雨音だけが、耳へと届く。
 その音に思考をひたしながら、ふと思い立って、体を起こした。
 あらぬところに丸まって放り出されている寝間着を拾って羽織ると、自分の唐突な行動に隣の男が再びこちらを見て、何事か、という視線を投げるように寄越す。
 だが、特に何を問われる訳でもなかったので、そのまま構わず寝間着の襟先を軽く重ねて立ち上がると、障子に近付いて桟に手を掛けた。
 緩々と隙間を開けば、耳に届く雨音がより響く。
 障子一枚の半分ほどを開け、そのまま胡坐に腰を下ろして庭を眺め遣り、静かに深く呼吸した。
 空気の中に舞う汚れを一切掃ったような、ひんやりと清む湿り気が、肺腑に満ちる。
「こういう雨は、好きだなぁ。」
 土に、木々に、敷石に、落ちる幾百幾千、銀色にも似た透明な条線。
 雨音は静かで、然し、無音では決して、ない。
 この雨という事象は、今同じ時を過ごすあの男に、よく似た印象だと思った。
 清澄な冷ややかさ、銀に似た髪、無口な饒舌。
「……おまえに似とるよなぁ。」
 この雨を好きだと思う心持は、そのまま、あの男を好きだと思う心持に通じている。
 おぼろに浮かぶ面影を雨に重ねて、思ったことをそのまま呟けば、楽しげに口端が笑んだ。
 それは自分では意識していない動きであったのだが、意識することもないほどに雨に見入っていたということでもあり、それゆえ背後に人の気配があることにすら、意識が及ぶこともなく。
 ばさ、と乱雑に紙の鳴る音がしたことで振り向き、そのとき初めて、すぐ後ろに、自分と同じように乱雑に寝間着を羽織り、こちらを見下ろしながら立つ男がいることに気付いた。
 胡坐から見上げると、この上ない不機嫌、といった風情の顔で見下ろしている視線と衝き合う。
「どうした、みつ」
「貴様は……! 此処にいてどうして私を見ずに雨ばかり見ている!」
「は?」
 問いを最後まで言い終えるより先に、捲くし立て始めたその剣幕があまりに突然突飛で、一瞬目をしばたいた自分に、相手は片膝をついてにじり寄る。
 言葉の意図が飲み込めず、間抜けに首を傾げ返すばかりの自分に、更に不機嫌を募らせたらしい。
「雨が似ている? 似ているなどと思い起こす必要があるのか、本物が此処にいるというのに!」
 襟首を掴み、引き立てるように目の前で叫ぶ相手の言葉を、自分の耳が漸く意味を伴って捉えた。
 それは、つまり。
「おまえ……それ、相当な口説き文句だと思うぞ……」
 噴き出しそうになる笑いをこらえればいいのか、顔の内側から湧く熱を隠せばいいのか、どんな表情を選択すればいいのか盛大に迷いながら、そう言ってやる。
 相手の不機嫌な剣幕が、一瞬途切れた。
 こちらの言葉に、多分、表情に困っている自分と同じ状況に陥ったに違いない。
 そのまま、あ、とか、う、とか、何かを言い掛けては留まるような相手の声だけが暫く続く。
 こういうところがとても「らしい」なぁ、と、考えるに到り、迷っていた表情は、笑うことを選択した。
 すれば、相手はそれを見て、今の今まで浮かんでいた不機嫌とは違う種類の顰め面をする。
「……貴様が、悪い。」
 まるで言い訳めいた言葉を吐きながら、それでも襟首を離そうとしないで近付く顔を、笑いに目を細めたまま迎えた。
 触れる、ひんやりとした、心地良い、湿り気。

 雨に似ているのか、雨が似ているのか。




「……ま、て。ちょっと待て。……開けっ放しは、流石に勘弁してくれ。」
「知るか。」
「続けるならせめて閉めさせてくれ。」
「誰が見るわけでもない。」
「いや、……頼む、から……!」
「知ったことか。」