あやのよる

  その夜、月はなかった。
 そろそろ亥の刻にもなろうという頃、本来ならばもう寝付いていておかしくない時間になっても、三成は眠れないでいた。
 仕方なく、寝床で無理矢理閉ざそうとしていた目を開ける。
 目を開けても、其処は閉じていた時と然程変わらぬ暗澹ばかり。
 床に着く前、灯りは疾うに落としたのだからそれは当然なのだが、周りは近きも遠きも、しん、と、静まり返り、この暗澹を助長するように何の音も無かった。
 何の気配もない静寂が、却って耳に障る。
 言葉にし難い苛つきを覚え、身を起こしたその時、背後に近い視界の端に何かがよぎった。
 首を巡らせると、それは庭に面した障子の向こう側、縁側の、膝高ほどの位置。
 小さく、うすぼんやりとした、ごく僅かに明るい何か。
 咄嗟に枕元へと手を伸ばし、音を立てぬように刀を掴むと、床から這い出で、その障子へと足を向ける。
 向こう側の灯りは、特に動く様子もなく、ただ其処にじっとあるようだった。
 或いは刺客か、と息を潜めて気配を探るが、人の気配や殺気のようなものは微塵も感じられず、むしろ己の方がよほど殺気立っている態に気付いて、我知らず眉根を寄せる。
 暫くそのまま様子を計っていたが、やはり動く様子すらないそれと障子越しに対峙する内に、ならばこの目で確かめてもいいのではないか、という思考が漣のように起きた。
 逡巡はあったが、意を決して障子に手を掛けると、ゆっくり横へ引く。
 月のない空の下は暗く、本来ならば庭の木の輪郭も定かでないのだが、其処にある明るさが、辛うじてという程度に淡く近景を描き出していた。
「……な……っ?!」
 その近景の中にあるものを見た瞬間、息が詰まる。
 心の臓が早鐘に乱れ、咽喉を遡って吐き出されそうな感覚。
 余りにもよく見知った背格好。
 余りにもよく馴染んだ姿影態。
「何故……?!」
 独り言にすらならない、声の出ない呟きに、仄灯りを手にぶら提げたように立つそれが、気付いたように振り向いた。
「あぁ、三成。」
 笑う。
 記憶にあるとおりの顔が、己を見て笑う。
 記憶にあるとおりの声が、己に紡がれる。

──あの日、この手で、その首を、掻っ切った筈の。

 叫び声が出なかったのは、叫びよりも、身体を砕いて外へと躍り出そうなほどに乱れた早鐘が勝ったからか。
 その早鐘がもたらすのは、口中の酷い乾きと、掌と背に湧くひやい汗。
「貴、様……化けて出たかっ……!」
 やっと発した言葉は、乾いた口中を辛うじて粘つかせながら通ってのもの。
 出せるだけの声を出した筈なのに、己の耳でさえ聞き取りづらいほどに、掠れ途切れている。
「そんなに怖い顔をするなよ。……確かに、化けて出てしまったようだが。」
 そんな様子を、困ったように笑う顔で見ているのは、そうだ、あの男だ。
「安心しろ、わしは死んだぞ。確かに。」
 表情と同じ、困ったように笑いながらの声も、あの男のものだ。
 余りにそれが在りし時そのままの態度であった為に、的外れな怒りが己の内に湧いて、事態の不条理な驚愕と恐怖とを、精神から駆逐する。
 死者が自分は死んだと言いながら、目の前で笑って話す様を見せておいて、挙句言った言葉が「安心しろ」とはどういう了見だ。
「家康……! もう一度私に殺されに来たのか……!」
 刀の鯉口を鳴らし、今しも抜刀せんと構えながら怒りに載せて口をついた言葉が、あの日叫んだ叶わぬ望みと同じものであることを、言った後で気付く。
 気付いて、突然に唐突に、腑に落ちてしまった。
 この男が、家康が化けて出た、その理由が。
「……そうか……私の、所為か……。」
 答えは何も返ってこなかったが、返ってこなかったことで、肯われたことを理解する。
 とす、と、張り詰めた力が抜けたように腰を下ろすと、縁側の家康も、胡坐をかいて座り込んだ。
 家康は、手に持っていた小さな灯りを、こと、と、自分の前に置く。
 よくよく見れば、それは奇妙なことに、葉束のついた白いかぶらの形をしていた。
 というか、かぶらそのものである。
 かぶらをくりぬいたその中に、小さな蝋燭が灯されていた。
 かぶら自体、然程大きなものではない。
 故に照らすそれはそれに見合う光量、辺り一帯を照らすほどの明るさは無く、せいぜい足許一尺ばかりを照らすの範囲のものであり、そんな灯りで互いの顔を見ようと思えば自然、並ぶような向かい合うような近い距離になる。
 殺し合ったとき以外でこんな近くに顔を見たのは、果たしていつのことだったろうか。
「……わしは、死んだら地獄に行くもんだと思っていた。」
 暫くどちらも何も言わずにいたが、ちりちりと蝋燭の燃える音が不意に響いて、思い出したように、家康が語り始める。
「わしの信念と理想の為に、多くを殺し、多くを奪い、多くを犠牲にした。おまえに負けたことで、自分に賭けてくれた者達をも置き去りにした。こんなわしが救われる理由は何処にもない。だから、死んだら地獄へ行くのだと。」
 その言葉に、それは自分も同じだ、と口を衝いて出そうになった。
 だが、言えば絶対に、この男は否定する。
 わしはおまえの大切なものを奪ったんだ、と、その困ったような笑い顔で言うに違いなかった。
 だから、言わずにおく。
 その「大切なもの」の意味をすら理解できていなかった自分を知った今となっては、こうするよりこの男の罪を減じてやれる方法がない。
「死んでから随分長いこと、真っ暗な中を歩いていた。漸っと地獄に着いたと思ったら、今度はその門番が言うんだ。──おまえは地獄に入れない、と。」
 理不尽だと思わんか? と同意を求める様子が余りに気軽いものだったので、ふん、と鼻で返事をしてやった。
「そこで、入る入れないで軽く取っ組み合いになったんだが、終いに、どうしても入れさせる訳にはいかないと、土下座までされて断られた。……そこまでされたら、こちらももう押しようがない。」
 自分で進んで地獄に入れろなどと、普通の死者なら言うまいに、この男はそれが当然だと押して通ろうとしたのだという。
 前からそうだとは思っていたが、本当に、この男は馬鹿だ。
 むしろ、その地獄の門番とやらは、実によくわかっている。
 この男には、地獄で粛然と罰を受ける安逸を与えるより、もっと相応しい「罰」がある筈だ。
「だが、地獄に入れないのなら、わしは何処に行けばいいのかわからん。門番に聞いても、来た道を戻れ、としか言わんしな。」
 自分の思ってもみなかった事態に、本当に途方に暮れたのだろう。
 はぁ、と溜息を零して暗い虚空を見上げている。
「それで、この世に舞い戻って来たのか。」
「仕方ないだろう、来た道を戻れと言われたんだ。真っ暗すぎて道がわからんと言ったら、そいつをくれたがな。」
 言いながら指差したのは、かぶらの灯り。
 何故かぶらだったのかはわからないらしいが、それでも、こんな小さな灯りにすら頼らざるを得ない暗闇の道を辿って、この世へ戻ってきたということは間違いなかった。
「足許は照らしても先が見えん灯りで、どうも心許なかったが、気がついたら此処に辿り着いていて、三成が見つけてくれたわけだ。」
 ははは、と、声を立てて笑い、かしかしと頭を掻く仕種をする。
 変わっていない。
 死して尚、この男はこの男のままだ。
「それで、戻ってきて、どうするのだ。」
 生き返るのか。
 だが、お前の身体はもうない。
 私が殺したのだ。
 殺して、あの骸は、既に疾く土に還ってしまった。
 問い掛けてじっと家康を見れば、曖昧な答えのように緩く首が振られる。
「それもわからん。亡霊は亡霊らしく、ただただこの世を彷徨うのかもしれんな。」
 呟くようにそう言って、視線をかぶらへ落とした。
 その答えにあたるものは、己も持ち得ておらず、ただ沈黙を以ってそれを受けるしかない。
「とりあえず、」
 軽く首を捻りながら考る仕種をし、こちらに向き直る。
「腹が減ったんだが、何か食うものはないか?」
 何を言い出すかと思えば、まるで予期できない気抜けた言葉を口にする。
「き……貴様は死んでいるのだろう! 何故腹が減る?!」
「死んでたって、減っているものは減っているんだから仕方ないだろう。」
 あっけらかんと答える様に、何という不条理な亡霊か、と腹が立つやら呆れるやら。
「食うものなど……」
 ない、と腹を立てながら言いかけて、ふと思い出したものがあった。
 立ち上がり、居室の隅に置かれた文机へと近付いて、その上に置かれた小さな文庫箱を手に戻る。
 かぶらの灯りの向こうから、興味ありげに、その文庫箱に視線を注がれているのを脇目で見ながら、箱を開けた。
 中には、白い薄紙でくるめられた小さなものが、行儀よく並んでいる。
「落雁か。」
 中身の正体を言い出すより早く、家康の弾む声が耳に届く。
 遠慮しない手が伸びて、指がひとつ、それを摘まんだ。
「腹の足しにはならんが、それ以外はないぞ。」 
「構わん、食えるなら。」
 白い薄紙を解けば、生成りた白い丸い塊が現れる。
 口の中へ放り込まれたそれは、こり、と砕ける音と共に家康の頬を小さく膨らませた。
「甘ぇな。」
 こりこりと噛み砕く合間に嬉しげに漏れる言葉が、ずっと前の、それこそ最初に出会った頃のような子供じみた声だった所為だろうか、微かな郷愁に駆られ、己もひとつ包みを解いて、落雁を頬張る。
 疲れたときには甘いものを食うが良い、と、かつて己に言ったのは誰だったか。
 甘い干菓子が口中で、砕けて、溶けて、消えていく。

──消える、のか。

 不意に脳裏をよぎる言葉が、何かと重なった。
 何と、とそれを探し、思い起こした瞬間、背を薄ら寒いものが奔り抜ける。
 それは恐怖に似ていた、戦慄にも似ていた。
 己は、また失うというのか。
 思い至れば最早、無意識の内に動いたのは手。
 伸ばした先は果たして掴めるものなのか、などと考える間すらなく動いていた。
「……三成……?」
 我に返ったのは、己の名を呼ばれる声に。
 そして掴んだ掌の中に、人の形をして、人の感触を持って、それは実存していた。 
 掴んだ方も掴まれた方も、酷く驚いた顔をして、数瞬の間、瞬きを繰り返していたことに、本人達は気付かない。
「貴様は……死んだのか?」 
 掌の中の感触が、思考を経てやっと言葉になったのは、それから更に幾許か後。
「死んだ筈……なんだがな……。」
 質量を持って掴まれている腕に、自分自身でも疑わしいといった表情で首を傾げている死者、というのは実に奇妙な光景で、己が何故こんな行動に出たのかを暫し失念させた。
 そうだ、死者で、亡霊なのだ、目の前のこの男は。
 だが、それならそれでもいい。
 手に力を篭め、腕に繋がる身体を前のめりに傾がせて、障子のこちら側に引き込む。
 家康の齧りかけた落雁が、その拍子に転がって落ちた。
 いびつに丸さを残した干菓子は、そのまま無為に転がり、夜闇に失せる。
 掴んだ腕を口許に近付ければ、人の匂いも、温度すらもあるのが知れた。
 灯りは相変わらず仄暗く、顔に影が掛かって表情の細かな機微は読み取れないが、驚きを含んだ不思議そうな顔がこちらを見上げているのはわかる。
 それには構わず口を開いて、腕に歯を立てた。
 ぐに、と、凹む皮膚があり、舌に触る表皮の淡い塩みがあり、己の唐突なこの行為に、慌てて腕を引こうとする反応がある。
 五感で知覚できるものが、ある。
 そのまま齧る仕種で腕を辿って上れば、小さな笑い声がひとつ、耳に届いた。
「おまえのそういうところは変わらんなぁ。」
 しみじみと、心底しみじみとそう言うこの男に、変わらんのは貴様だ、と毒づく代わり、一際力を入れて二の腕を噛み食む。
 痛ぇっ、と小さく呟く声が聞こえたが、知ったことではない。
 立てた歯を外し、肩の下、抱き込むような位置にある顔に手を掛け、己に向けさせた。
「消えるな。死者だろうと亡霊だろうと、私の前から消えることは許さない。」
 見据えて言えば、薄暗がりでもわかるほど、家康の目が見開かれる。
 そうだ、消えるな。
 死者や亡霊なら尚更、生ある頃のくびきもしがらみもない、消える理由もない筈だ。
「……そうか。消えたら駄目なのか。」
 見開いていた家康の目が、ゆっくり、笑み作る形に細まる。
 息を吐くようにそう言って、小さく、咽喉の奥で笑っているようだった。
「駄目だ。」
「そうか、駄目か。」
「駄目だ。」
 戯言のように何度も、同じ言葉を互いに繰り返す。
 煩い、黙れ。
 それが余りに続くので、終には鬱陶しくなって家康の口を噛んだ。
 言葉は途切れたが、咽喉の奥の笑いは響いてくる。
 黙れ。
 言うより理解しやすいように、そのまま唇を塞いだ。


「駄目と言われても、なぁ……」


 夢現のように互いに重なる中、家康が小さくそう言ったのは、三成には聞こえていなかった。





  冷えた風が瞼を掠った。
 床の中に納まって眠っている己を把握したのは、明け方の淡い光と、その肌寒さの所為である。
 夜の記憶を繋いで見回せば、障子が一面だけ開いていた。
 跳ね起きて、その障子、縁側を見る。
 誰も、何も、いない。
 もしやただの夢か、と、己の記憶を疑いかけた時、置かれた文庫箱が足先に触れた。
 その先に、白い薄紙、齧りかけの落雁が、転がる。
「……消え、るなと……言っただろう……っ!」
 こういうときにこみ上げるものは、怒りだと思っていた。
 かつて、憎悪というものを抱えていた、あのようなものだと。

 いいや、違う。
 それは「かなしい」というんだ。 

 聞こえもしない声が、何故頭の中に響くのか。
 答えを返すものは、ない。