はなひらく

  あの日。
 慟哭があった。

 黄金の月のような髪も、其の忍の星纏う如き装束も、己の傷から流した血と息絶えたばかりの主の流した夥しい血に染むのも厭わず、かすがは己が主の骸を掻き抱き、尽きること無く慟哭していた。
 傍らに立つ佐助も血塗れていた。
 同じ出の忍、慟哭するかすがが其の腕に抱く骸は、己の手が為した果てだ。

「……謙信…様をっ……お守りで…なか…っ……私の罪…に……ざいま…す…っ……」

 とうに流れ尽きたのか、骸から流れる血の気は既に無い。
 傷に生しい血の凝りをこびり付かせてはいるが、元より白かった肌を持っていた貌は、其れ故尚更に瑯たけた白さとなり。
 生在る内から「軍神」と人の口の端に上っていた其の姿は、人の肌色を失くした今、更に神々しくさえあった。
 人の形をしているのに、此の世の者とは思えない凄烈な美しさに拍車を掛けていた。

 其の美しい骸を抱く、かすが。
 彼女の慟哭は永久に続くのでは、と思われた。
 其れ程に長い時の間だったのだ。
 其の間、佐助もまた其処に立っていた。
 やがて慟哭が嗚咽にやや移ろいだ頃、佐助は重く口を開く。

「……さてと、あんたは此れで解放されたよ。」

 佐助の声にも骸を離そうとしないかすがだったが、其の言葉に一瞬だけ止んだ嗚咽。
 息を呑んだような、そんな間の後。

「……去れ。」

 かすがの口から、小さな、然し先刻までの身も世も無いといった嗚咽とはまるで違う、強い語気が吐き捨てられるように返ってきた。
 其の返ってきた言葉に、もう一度同じ言葉を掛けようか否か逡巡してしまう。
 主を殺したのが己ならば、今迄の彼女を思えば敵討ちとばかり、己に向かってきたとしてもおかしくはない。
 いや寧ろ、そうすると思っていた。
 其れが当然の成り行きになるだろうと思っていたのだ。
 だが、そうはならなかった。

「去れ。」

 再度同じ言葉を発したのは、彼女の方だった。
 骸を抱いた侭の、其の顔は見えない。
 一度目に出た強い語気とは逆に、2度目は其処に抑揚は無く、唯、短くはっきりと己の耳に届く。

「……んじゃ……また、な。」

 彼女の声には何ものをも拒絶した響きしかなく。
 其れを察して、己は敢えていつものような軽い口調で告げた。

──……時間が必要、なんだろうさ。

 彼女は今、普通にものを考えられる状態では無い。
 其れなら今、説き伏せるなり連れ去ってしまうなりした方が都合が良いのかもしれないが、其れをするのは何故か憚られ、結局、彼女の要求どおり、其の場から消え去ることを選択したのだ。

 やがて、己以外生者の気配が無くなったことを感じた彼女は、もう一度、泣いた。
 慟哭でも嗚咽でもない其れは、細い、か細い啜り泣きだった。



 越後、上杉の旧城にかすがはいた。
 あの日、謙信の骸を城へ連れ帰るということが、かすがの最後の任となった。
 謙信の家臣達は、かすがを、首級を取られること無く謙信の遺骸を連れ帰った功労者として労った。
 無論、謙信を守りきれなかったことを責める者も無くはなかったが、其れはどの家臣であっても同罪であることを皆知っている。
 かすがの献身を間近に知る者達であれば尚更に、かすが自身が深い慙愧と悔恨を抱いていることなど、わかりきっているのだから。
 佐助は、そんなかすがのところへ出向いてきた。
「だからさ、あんたはもう好きに生きていいんだ。だから、一緒にやってかない?」
 幾度も言ったであろう同じ言葉を、今日もまた告げる。 

 聞くかすがは、唯々、無表情だった。
 謙信在る頃、佐助を鬱陶しがっていた彼女は、不快感であれ怒りであれ、いつも何がしかの反応、表情の変化を見せていたのだが、今のかすがは何を告げようと其の表情が動かない。
 其れでも繰り返し佐助は説いた。
 
「あんたの大事だった大将も、死んでまであんたを縛ろうとはと思ってないんじゃないの。」

 戦のこと以外は物分かりよさそうな大将だったしな、と軽口を添えるいつもの調子で、尚も無表情なかすがに、謙信の話を振ってみる。
 其の「大事な大将」を殺した俺が言っても逆効果かもだけど、とは考えたが、其れでも反応無いよりマシだよなぁ、とも考えて。
「……謙信…様…」
 そして良い兆候か悪い兆候か、佐助の言葉にかすががぽつりと呟いた。
 其の呟きの後にはまた沈黙が流れたが、佐助は其処に何かの手応えのようなものを感じて、あせることなく其の沈黙に耳を欹て待つ。

「……好きに……」

 どれ程沈黙の中を待ったか。
 かすががまた呟いた。
「そうそう。もう自分で自由に好きに生きちゃいなって。」
 呟きに添えるように答えながら、やっと、其れも初めて肯定的に思える反応があったことに、佐助は自分が浮かれるのを自覚する。
 だから、気付かなかったのだろうか。
「自由に生きる……」
 密やかな淡い笑みを、かすがが、浮かべていたことに。


 上杉の旧城を後にした佐助の影に、追うような影がもう一体いたことを知るものは無かった。
 武田信玄の軍が、京へと上洛し天下統一を果たしたのは、其れから間も無くのこととなる。





  眼下に、相も変らぬ呼応の大声と殴り合いが繰り広げられている。

「やれやれ、乱世も終わったってのに、変わらんお人達だ。」
 高楼の屋根の上で、佐助はのんびりと其れを眺めていた。
 そして、己の隣に視線を向ける。
「ま、俺達は俺達で仲良くいこうぜ。」
 其処に立つは、星を纏う装束の、かすが。
 上洛の武田軍に同行はしなかったものの、今此処に、あの平和な風景を一緒に眺める其の顔を見て、随分と表情が柔らかくなった、と佐助は思った。

 この笑顔なんか、まるで大輪の華が咲いたみたいじゃないか。

 悦に入る佐助。
 そんな佐助を見て微笑むかすが。
「裏切ったり裏切られたりはもう御免、だろ?」
 佐助がそう言って笑い掛けると、応えるようにかすがの笑顔が深くなった。
 其の笑顔が自分に向いてのものだということが、佐助の気持ちを明るく浮き立たせる。
 此れからは二人で、と柄にも無い未来を脳裏に描いていた其の時。
 かすがの金に煌く髪がゆるりと揺れ、大輪の華の笑顔を、黒光りする金属の光沢が彩る。
 佐助は一瞬、何が起きようとしているのか理解出来なかった。

「……へっ、冗談……?」

 忍らしい状況判断の速さですぐに何が起きているのか認識したものの、佐助の表情は笑ったまま口端を引き攣らせて強張っている。
 黒光りは、かすがの細い指を其の引き金に掛けられ、佐助へと向いていた。
「私は好きに生きることにした。」
 言葉を紡ぐかすがの笑みは、此れ以上無く満ち足りている。

「私は私の意思で、生きる。……だから」

 花開き、咲き誇る大輪。
 其の華を咲かせたのは、佐助自身ではあるのだが。
 
「先ずは謙信様を殺したお前に復讐することにした。」



 往来の喧騒。


 響く銃声。
 


 零れるような笑みを浮かべるかすがは、嘗て無く至福の心地に満ちていた。



 華は、開く。