はるまだき
空気冷たく、道は雪深く、吐く息は白く。
春分近いとはいえまだ雪深いこの時期に、わざわざ雪国へ行く者は多くない。
背に長い包みを背負い、時に足を雪にとられながら、それでもしっかりとした足取りで、家康はひとり、山道を登っていく。
此処まで遠路、それも慣れない雪道を歩いて来て、疲れは溜まっていた。
然し、この道行きもあと少し、山の頂、行き着く先がもうすぐだと思えば、足の進みを遅らせることもない。
漸く山の中腹に差し掛かろうかという頃、ふと振り返った眼下は、薄い冬曇りで陽の光こそ差していないが、あまねくものを覆い隠した雪そのものが明るく白くなだらかで、明暗と稜線だけで描かれた土地の起伏が、まるで水墨画のように美しかった。
──似ているな。
唐突にそう思ったのは、今向かっている先、この山の頂に住まう主のことである。
一年の内の半分近い長きをこの景色と共に過ごしていると、或いはあのような風情になるのか。
とりとめもなくそんなことを考えてその貌差しを思い起こした途端、冷たい空気の中で僅かに顔が上気して、家康は思わず自分に苦笑した。
そしてがしがしと頭を掻いて、さぁ行くか、と、誰も聞く者もないのにわざわざ声に出してまた歩き出す。
と、そんなふうに気を取り直したというのに。
きしきしと雪を踏む音が、耳に届いてすぐに雪の中に吸い込まれていく中、足元を気にしながら歩いていた所為か、思いもよらない事態にあることに気づいたのは、それに直面したそのときであった。
「めずらしきこと。このきせつに、こことおとなうものがいるとは。」
透明な氷を鳴らすように響く声が、頭上から降る。
そのとき、家康は驚きで目を見開いていたに違いない。
白い馬の上に、白い法衣を纏う、雪の貌差し。
ついさっき、脳裏で思い起こしたものと寸分違わぬ貌が、現実目の前にあった。
「……ぐ、軍神殿……?!」
口を衝いて出たのは、その名前。
何故此処に、という疑問を表情がそのまま語っているのを、家康自身は自覚する余裕もないまま、馬上で柔らかく微笑している謙信に目をしばたかせている。
「どうしたのです、みかわのとらよ。」
呆然として家康が口を開く様子がないのを、然し謙信の方は特に不審に思ったふうもなく、いつもどおり泰然とした口調で問い掛けた。
「あ、いや……その、新年の挨拶をと思い……」
しどろになりながら答えて、そうだった、と、家康は此処に来た目的を思い出す。
先刻と同じように頭をがしがしと掻いて、仕切りなおすように居住まいを正すと、謙信を見上げてから礼儀正しく一礼した。
「てんかにぶんのしょうが、いっかいのぶしょうにたいして、かしんのするようなれいなどされなくても。」
言いながら、謙信はするりと馬から下りる。
地に足を着いて並べば、謙信は家康よりも随分小柄な背丈だ。
「いや、あなたはわしが尊敬する信玄公と並び立つ、たった一人の方だ。そのあなたに対して非礼はしたくない。」
生真面目な顔をして答える家康を、謙信は微笑で見る。
「今から城へ伺おうと思っていたのだが……何か御用向きがある様子だし、日を改めて……」
その微笑は家康にとって余りに面映く、出る言葉もつい途切れがちになってしまう。
馬に乗っているということは遠出をするということだろう、と推測して、家康は訪問を辞して帰ろうとしたのだが、それを言いかけた家康の言葉を謙信がさらり遮った。
「それにはおよびません。……つるぎ、いますか。」
氷の響きは変わらず、然しほんの少し重たく、腹に力を篭めた声で、謙信は最も信をおく懐刀を呼ぶ。
声が響いてこだまがなるかならないかの内に、謙信の横に黒と金を纏った影が現れて膝を付いた。
「謙信様、こちらに。」
「わたくしのつるぎ。てまをとらせてもうしわけないですが、いそぎ、うまをつれてきてください。」
「馬を……?」
「えんろたずねてまいられたのに、こちらのつごうでおかえりいただくのも、こころぐるしいでしょう。」
現れたかすがは、謙信の横にいる家康を見て表情を険しくする。
先刻、謙信に遭遇した時の家康よりも、その表情は雄弁だ。
何故おまえが此処にいる、なぜお前が謙信様のお側にいる、何故お前が…… と、謙信の近くに誰かいるのが気に入らないのが明らかなその表情に、家康は盛大に困った顔で笑うしか返しようがなかった。
「たのみましたよ?」
そのかすがに、雪中の白椿のような笑みをして、謙信が頼みの言葉を向ける。
途端にかすがの険しい表情が溶け消え、これ以上ない至福に満ちたものになった。
「はい、謙信様の仰せの通りに!」
そのまますっと姿を消すかすがは、主の意思に適うべく、即座に謙信の言を遂行する為に動いたのだろう。
気配を追ってか、謙信は一度空を仰ぎ見るように顔を上げ、それからもう一度家康に向いた。
「わたくしは、これからかいへおもむくところです。みかわのとら、おまえもおいでなさい。」
「えっ、……え?!」
向けられるのは、その白椿の笑み。
それに思わず眩みかけた家康は、然し続いて紡がれた謙信の言葉に瞠目した。
「甲斐に? もしや、信玄公の所に向かわれるところだったのか?」
「そうです。かいのとらのやまいも、いまはすでにかいほうにあるとのこと。なればわたくしも、あたらしきとしのことほぎを、と。」
己が師と仰ぐ信玄の快気見舞いを兼ねるということであれば、家康に断る道理はない。
それどころか、あの大阪の陣以来、武田に繋げる機会がなかなかなかっただけに、そんな機会が降って湧いたことのは僥倖といっていいくらいである。
「では、お言葉に甘えて。」
家康が勇んで同行を首肯すると、謙信の白椿の笑みが深くなった。
くらり、音のない何かが揺れるような錯覚が起きる。
一体自分は、この人の笑い顔に何度眩めばいいのか、と、家康はつい自問自答しそうになった。
道中馬上にある間、終始突き刺さるような視線を背中に背負いながら甲斐へ到着すれば、武田方には既に謙信の訪問は知らされていたのだろう。
客人というよりは、既に身内の要人のような待遇で迎え入れられた。
忍びであるかすがは、己が務めとして控えることを心得ているようで、屋敷へ入る前にその姿を消す。
奥の部屋へ通されれば、床の上に掻巻を着込んで胡坐をかいて座る信玄の姿があった。
「はつはるのことほぎにまいりました。」
下座に座して謙信が言うと、それを受けて信玄が呵呵と笑う。
「見苦しい様で申し訳ない。もうほぼ問題はないのだが、まだ大事を取れと周りが煩くてな。」
長らく安静を言い渡されて床に臥せっていた身がもどかしく思えていたのであろう、とにかく動きたくて仕方ないというような様子で信玄は言った。
「ほどなくはるになります。ゆきどけのころには、あなたさまのぶりょうもおわりましょう。」
謙信の表情も、日差しの中の雪のように明るい。
そんなふたりの様子を、やや下がった位置で家康は眺めていた。
龍虎と呼ばれる川中島の好敵手、戦になれば何の容赦もなく戦う者同士、然しこの様子からはそのような殺伐とした様相は微塵もなく、知らぬものが見れば想像すら付かないだろう。
仲睦まじげな様子はむしろ、恋い慕い合う者のそれである。
──……ははっ、……少々居辛い雰囲気だな……。
言葉にし難い複雑なものが、色々胸中に流れては消えて消えては流れていくのだが、それをあえて捕まえることはしない。
中座すべきか、と思い始めたところで、謙信が家康を振り向いた。
「こちらへくるとちゅう、みかわのとらとゆきあいました。わたくしのところへ、しんねんのあいさつにきてくれたそうなのですが、このとおりかいへくることになっていましたから、ともにまいったのです。」
こちらへおいでなさい、と謙信の横へ来るように呼ばれる。
どうしようか幾分躊躇したものの、辞する方が失礼か、と思い当たり、いざり寄るように謙信の横へ来ると、がっと拳を付いて深々と礼をした。
「めでたき新年のお祝いを申し上げ仕る。信玄公、病が快方に向かわれて、何よりだ!」
張り上げる声は、師として向き合うことができる、喜びの表れ。
目指す目標として、いつか越えるべき相手への、敬意の表れ。
その瞬間、信玄の目が驚いたように開いたのを、深く頭を下げていた家康は見ることはなかった。
尤も、それもすぐに消え、例え即座に頭を上げても見ることは適わなかったであろう。
「三河の、随分と成長したものよのぅ。見違えたわ。」
感慨を深くしたように頷きながら、信玄が家康に言った。
跳ねるように頭を上げると、満足げに笑う信玄の顔がある。
嬉しかった。
信玄に己の成長を認めて貰うというのは、あの三方ヶ原での負けからの、家康のひとつの大きな目標でもあったのだから。
明瞭な喜色を振り撒いて、家康がもう一度頭を下げた時、恐らく庭に面しているのであろう障子の向こうから外一帯に響き渡りそうな声が聞こえてくる。
「ぅおやかたさまあああぁぁっ!」
誰、と誰何する必要もない、その声の主は顔を見るまでもなく明らかだ。
「上杉殿が新年の挨拶にお見えになっていると、佐助から聞き及びましたああぁぁ!」
声が終わるか否かの内に、勢い良く、障子が桟から外れて飛んでいきそうな程の勢いで開く。
「幸村! 客人の前ぞ、礼節を持って自重せんか!」
「とらのわこ。そくさいそうでなによりです。」
「相変わらずだな、真田!」
両開きの障子を開いた其処に、大の字を描くような格好で現れた幸村を、その場の三者はそれぞれに迎えた。
信玄と謙信とに向けた幸村の視線は、それから、謙信の横の家康に移る。
そして、微妙な間を置いて。
「なっ……なにゆえ徳川殿が此処におられるのだああぁっ!」
大きな声に素っ頓狂な声の弾みがついて、辺り一帯、殊更、部屋の中に響き渡った。
「わしが謙信公のところへ新年の挨拶に向かったら、謙信公が甲斐へ新年の挨拶に行かれるというので、お供させて頂いたのだ。」
「そうでござったか。なれば、某も改めて新年の挨拶を……!」
快活に返す家康の様子に、これまた快活に答える幸村。
程無く来るであろう戦では、また東西それぞれに袂を分かつことになるとはいえ、私人同士としてのふたりには、最早わだかまりはない。
「お館様! 叶うならば某、新たな年の事始として是非、徳川殿と手合わせ致したい所存! 何卒、試合のお許しを!」
挨拶も早々に幸村がそう切り出すと、信玄が苦笑しながら家康を見る。
「うむ。儂は構わんが……三河の、どうだ?」
尋ねる口調ではあるが、受けてやってくれんか、という表情を其処に読み取って、家康は大きく頷いた。
「ワシでよければ、是非お相手致そう!」
「かたじけない、徳川殿! では早速道場に案内致すでござる!」
喜色満面で闘志を漲らせる幸村に、家康は心密かに感謝する。
この場から退くには丁度いい口実になった、と。
信玄と謙信に向き直り、座を辞す挨拶として、再度拳を付き礼をすると、すぐに立ち上がって先に部屋を出た幸村を追った。
二人が出て行くと、信玄の居室はやや寂とした静けさを取り戻す。
「とらのたましいは、ひとつならず。よきわかものらをみいだされましたね、かいのとら。」
「おぬしのお陰もあろう。幸村は、おぬしの導きで己が曇りを払拭し、道を見出した。三河のは……」
愛弟子を褒める師の顔で、信玄は何度も頷いていたが、言いかけた語尾がふと消えた。
謙信が、す、と視線を信玄に投げて微笑する。
「三河の、……あれはおぬしに懸想しておるな。」
言葉を続けながら、信玄が僅かに口端をへの字にしたのを、謙信は見ていた。
そして、ふふ、と細く笑い声を立て。
「こちらへのどうちゅうも、たいそうかわいらしいようすをみせてくれましたよ。」
すました顔で言う。
それを聞いた信玄が、苦虫を噛んだような渋面をすると、緩く首を傾けながら言った。
「あなたさまがいつまでも、やまいとなかよくされておられるのがわるいのです。」
はやく、いくさばでまみえましょう。
謙信の唇から一声潜められた言葉が紡ぎだされると、一瞬呆けた顔をした信玄が、また呵呵と笑い出す。
「儂が戻れば、川中島の凍て土も春になるか。なれば早う、戦場に戻らねばな。」
笑い声は、春の陽のように部屋中に響いた。
道場に案内された家康は、己の背の荷を降ろしていないことに、今になって気付いた。
手合わせするには邪魔になる、と、体に括った紐をほどいて降ろす。
凡そ三尺五寸余り、黒い布で包まれたそれは、降ろせばごとりと重い音がした。
「得物でござるか? しかし徳川殿は武器を持たぬ筈……」
幸村が不思議そうに訊くと、家康は、あぁ、と笑って首を振る。
「これは、軍神殿にお渡しするものだ。……いずれ武田を倒す者同士のよしみとしてな。」
にやりと笑って見せる家康に、幸村は驚いた顔をしたが、はた、と、何かに得心いったように笑った。
「なれば、某とも戦う理由があるでござるな!」
息巻く幸村に、家康も応と答えて笑う。
立ち上がり、道場の真中で対峙するふたりの、いざ。
「では始めようか、真田! 手合わせでも手加減は無用だ!」
「いざ参られよ、徳川殿! 某とて手加減は致さぬ!」
それは楽しげな、虎の弟子達の小手調べ。
ぐ、と、どちらの拳も力を篭めて強く握られる、それを合図に。