ひとひと

  向き合うふたつの影が、静かな茶室にあった。
 茶室の主が、釜から湯を汲み、さらさらと軽やかに茶を点じて呈すと、茶事に慣れていないらしい客は、些か不調法ながらそれを飲み干す。
 椀を置き、その茶が胃の腑に落ちるころには客の気持ちの硬さがほぐれたようで、小さく一礼して息を吐いた。
 それを好しとし、茶室の主は静かに口を開く。
「そなたがここへきたのは、おそれ ですか。」
 穏やかに優しく、然し真意を衝いて、茶室の主、上杉謙信に問い掛けられ、客、徳川家康は瞬間、ぎくりとした感情をそのまま顔色に乗せた。
 相手が既にその答えを見透かしていることがわかっているから、答えを声に載せて出すことができないでいる。
 しゅんしゅんと沸く湯の音だけが、その沈黙を埋めていた。
「このたいへいをのぞんだはてに、そなたはなにをおそれますか。」
 謙信の静かな問いが、相手に問いの答えを求めるものへ変わる。
 家康は顔を俯きがちに伏せながら、膝の上に両の手を握り締め、暫し逡巡の後に言葉を発した。
「わしは……恐れているのか。」
 それは、問いに問い返すようでいて、その実、己に向けて発した、ひとつの確認。
「そなたのおそれは、よをてらすひかりとなることへのおそれ。ひかりのみちをゆくことへのおそれ。」
 あぁ、と、溜息に似た表情を家康はした。
 見出した答えと同じ答えが、過たず謙信の言葉にあったからだ。
「迷いなく惑いなく、わしは前を向いていかねばならない。それがこの拳で導き出した答えだからだ。だが、前を向くことの恐怖を、今更ながらわしは恐れる、恐れている。」
 もう失うことはない、ということが、もう失えるものがない、ということと同義だと知ってしまったからだと、家康は自覚したのである。
 謙信はただ静かな沈黙を守っていたが、家康が感情の発露に困って再度沈黙に陥ると、眦を僅かに下げて微笑した。
「そなたはすこし、たちどまらなければなりませんね。」
 例えるならば、慈母の眼差しのようなその微笑を向けられ、家康ははっと顔を上げる。
「ひとは、たちどまり、ふりかえり、くやみ、かなしみながら、いきてよいのですよ。」
 ゆっくりと謙信が紡ぐ言葉に、家康は、心の臓の奥でずっと何かを堰き止めていたものが、崩されていくような気がした。
 だが、崩れたものは、長らく思っていたような負の濁流ではなく、暖かく湿った春の雨のような温度と湿度を、家康の咽喉の奥に、鼻の奥にもたらす。

──あぁ、悔いていいのだ、悲しんでいいのだ。

 三成を手に掛けたことを、三成を失ったことを、それを抱えて生きることを。
「かみなど、ししてからおなりなさい。ひとは、いきているあいだは、ひとであればよいのです。」
 ひとであれ、と、謙信は言う。
 人でありたい、と、家康が戦場で叫んだことなど、謙信が知る筈もないというのに。
 ……全く、千里眼でも持っているのか、あなたというひとは。
 小さな笑いが咽喉から込み上げて漏れ、家康は思わず、参った、と呟いた。

 釜から湯が汲まれ、再び茶が点ぜられる。
「……神など死してからなれ、か。」 
 出された椀を手の中で巡らせながら、生きながら軍神と呼ばれるあなたがそれを言うのか、と、家康は可笑しそうに茶を飲み干した。