きんぎょ

  天下を二分する戦で西軍に軍配が上がり、時を刻む月の満ち欠けが一巡りを過ぎた頃。
 豊臣時代に掲げられた富国強兵の方針は変わらず、然し秀吉が支配していた頃よりは、幾分緩やかな治世となった。
 西軍についた諸国の武将たちの支えで、あの石田が自らをよく御し、勘気無く善政を敷いている、というのが、世間に流れる専らの空気である。
 尤も、下々の民にとっては、上に立つ者が誰であろうと余り問題ではない。
 戦無く平穏に暮らせるのであれば、それでいいのだ。

 大谷が三成の変調に気付き始めたのは、そんな頃だった。
 時折、虚空を凝視し 眉を顰めるような仕種をする。
 時に、せわしなく視線を巡らせて、何かを探しているような仕種をする。
 そのときの三成は、決まって不機嫌だった。
 三成の勘気を呼ぶものは最早この世にはないはずだというのに、天下平定を境にいっとき消えていたそれらが、ふとした拍子に現れる。
 最初の頃こそ、為政の疲れでも溜まって機嫌を悪くしているのであろうと思っていたが、ある日、三成が唐突に言った。
「刑部、家康は何処だ。」
 戦の頃そのままの険しい口調が、ありえないことを問う。
「何を言うておる。徳川ならば、ぬしが討ち果たしたであろ。」
 奇妙なことを、と思ったが、疲れが過ぎて呆けたか、と、そのときはただ笑った。
「そう……そうだった……な。」
 三成も、返された答えにほんの僅か瞠目したが、すぐに、あぁ、と得心した顔で頷く。
「ぬしは何事にも根を詰めすぎる。偶には息を抜きやれ。」
 大谷が労いを掛けてやると、もう一度頷いた。
 そのときは、ただそれだけのやり取りで終わり、特に何が起こることも無く過ぎる。
 だが、思えばそれが最初の端であった。
 その会話があったこと自体忘れた、幾日か後。
「刑部、家康は何処だ。」
 一言一句たがわぬ問いを、再度大谷へと向けたのである。
 流石の大谷も、不審にならざるをえない。
 一度ならず二度までも、この聡明な男が、呆けたことを問う筈が無いのだ。
「三成よ。ぬしは、」
 怪訝を拭えぬまま、それでも先日と同じことを返そうとすれば、それを遮るように三成が叫ぶ。
「そんな覚えはない! こうしている今も、何処かで奴は私を笑っている! 私は殺さねばならないのだ、家康を!」
 その叫びは、嘗てのような強い怒気を孕んで響いた。
 叫んで、きりきりと唇を噛んで、虚空を睨んで、三成は何を見るのか。
 この一言が、大谷の中に三成の奇異を決定付けた。
 その手で殺して、それでも殺しきれなかったと幻すか、三成よ。
 名状しがたい憐憫に、大谷は胸が焼ける思いに駆られる。
 同時に、死んで尚、三成の心に楔を入れる太陽のような男を、今更ながら憎んだ。
 ぬしはまこと、不幸を呼ぶ者であった、と。
「……そうさな、彼奴がいずこにあるかは知らぬが、今も笑うておろうよ。」
 大谷は、諦念のように目を閉じると、笑いながら三成の求める答えを口にしてやる。
「日ノ本の何処に居ろうと、探し出して、ぬしのその手で息の根を止めてやるがよかろ。」
 息を呑むように笑う己の声は、笑いを吐き出しているのではなく、苦汁を呑む音なのだ、と、大谷は思った。

  豊臣秀吉の遺したものを、三成はほぼ全てそのまま残していた。
 豊臣を継ぐ者と言われながら、豊臣の遺したものを一切己のものとはしなかった。
 それは、傍目には忠義の極みのように映る。
 勿論それは間違いではないだろうが、真実の深底は、ただただ、微温湯の感傷をそこに求め続ける行為である、と、大谷は知っていた。
 三成の記憶にある風景、秀吉が在った頃のままに、という、ただそれだけの為なのである。
 広大な大阪城は、殊更その感が強い場所だった。
 豊臣の栄華を留める為だけにあるような風情を、大谷は密かに、奥津城の如きものだと思う。
 ましてや、三成があのようになってしまっては。
 大谷の向かう先は城の或る一角、其処に、三成は最近出入りするようになった。
 秀吉が在った頃に献上された、贅を尽くした品々を置いておくだけの場所の更に片隅、堀の水を汲み上げ、水庭園のような風景を作り上げた其処に、いつぞの昔、上方の商人が献上した物の内のひとつがある。
 玻璃の水鉢と、其処に泳ぐ緋鮒の群れ。
 その水鉢の前に、三成が立っていた。
 それを見つけた大谷は、やれまたか、と、溜息をするように呟く。
 三成の右の掌に、緋鮒が一匹、顔を出すように握られていた。
 水から揚げられ、ちぴちぴと苦しそうにもがく様を、何の抑揚も持たない三成の目が見ている。
「やれ三成よ、今日はどんな責め苦を与えたか。」
 大谷が声を掛けても、三成の目は緋鮒から動かなかった。
 三成の掌中でもがく緋鮒の動きが、徐々に緩やかになってくる。
 凝視する視線が僅かに緩んだ。
 ぐ、と三成の掌が縮こまる。
 それは小さな魚だ、人の首を捻じ切るような力は要らぬ。
 一瞬にも似た時間しか過ぎない間に、緋鮒はその緩やかな動きさえ止めた。
 三成の表情が、其処で初めて動く。
 憤怒のような怨嗟のような、苦悶のような。
 だが其処に声は無く、無言の内に、握る掌は緩められて解かれた。
 動かなくなった緋鮒が落ちる。
 三成が緋鮒を殺し始めて、もう幾日になるのか。
 秀吉の遺したものを、然も自らの手で損なうなど、今までならば有り得ないことだったというのに。
 最初に見つけたときは、刀の先で突き殺されていた。
 次の時には、鰓を開いて縊り殺していた。
 最初は数匹ほどだったそれは、然し都度を追う毎に数を増していき、今日などはもう、既に足許に無数の緋鮒の屍骸が転がっている。
 奇異なる妄言、奇異なる殺戮。
 三成の行動をずっと見てきた大谷の目にすら、妄言とこの殺戮以外、普段の三成に奇異はない。
 果たして、奇異が三成を現実に繋ぐのか、現実が三成に奇異を為すのか。 
 生き物のある場所、それゆえに、此処には柔らかい陽光が差すように設計されている。
 命を生かすに適した柔らかい光が、皮肉のように緋鮒の屍骸に落ち掛かり、その鱗がきらきらと陽光を照り返して朱と金の光を生み出していた。
 屍骸の真中に立つ三成は、水鉢から次なる緋鮒を掴み、引きずり出す。
 この、静かな狂乱の様を目にしながら、三成よ、と大谷は声にせず心内で語り掛けた。
 その朱と金、どれほど積もうとあれにはならぬわ、と。
 だが、それを言うつもりは終ぞなかった。
 掌から毀れて落ちたものを、もう一度、もう一度、と、無間地獄のように繰り返す三成を、責める理由が何処にあろう。

 あれらも、あの男のもたらした不幸の割を食ったのだ、恨むならあの男を恨むが筋よ。

 死せる緋鮒の屍骸が、また増える。
 大谷は、三成以外の命を、随分と久し振りに哀れと感じた。
 いっそ、この朱と金とが寄り集まり、あの男を黄泉帰らせたなら、三成も、死せるあれらも死の甲斐があろうものを。
 いつまでも消えようとしない、残影というには余りにも眩い存在を、大谷は暗く呪った。