こいがたり

  大きな荷を背に、深い息をついて、やたら険しい山城の道を登り終えた。
 振り返れば、秋の気配が漂い始めた高く青い空と、今の今迄歩いた来し方が一望できる。
 景観を眺めて息も落ち着いた頃、大きな声を張り上げた。

「たのもー!」

 其の一声は、其の空同様、辺りに良く広がった。
 声に、門番が慌てたように顔を出す。
 幸いにも、怪しい人物と判断されることは無かったようで、中へ招き入れられ暫く待てば、程無く此の砦の主が現れた。
「あなや、だれかとおもえば。」
 唐突の訪い人にやや驚いたような表情をしたのは、此の山城の主、上杉謙信である。
「おう、久し振りだな謙信。手ぶらで来るのも何だったから、土産持ってきたぜ。」
 言いながら、前田慶次は背負う樽酒をごろんと下ろした。
「おぉ、ありがたく。」
 人を呼び、其の樽酒を運ばせながら、嬉しそうな顔で礼を言う謙信に、いいってことよ、と、屈託無く慶次は笑い返す。
 訪い先の主が一番喜ぶ土産物を持ってきたのは、勿論自分も相伴に与る腹もあったのだが、然し、やはり何より嬉しそうな相手の顔が見たかったという点に尽きる。
 以前、謙信が将軍の要請で京へ来た折に顔を合わせ、妙に意気投合して以来、慶次は時折こんなふうに謙信のところへ来るようになった。
 唐突にやって来てはさっと去っていく、そんな文字通りの風来坊を、謙信はいつも笑み湛えて迎える。
「ここまでのとおでは、なかなかにつかれたであろう。まずはひとごこちつくとよい。」
 上がり込む許しを得れば、慶次は勝手知ったる態で館の奥へと向かう。
 此れももう既に何度か目のことで、館の者達も其れなりに慣れている中、ひとりだけ未だ見慣れない顔を慶次は見掛けた。
「……あの子、確かこないだ謙信と一緒に居たよな。」
 先日、京へ何かを調べに来たらしい折の、常に謙信の側に在ったのがあの顔だった。
 謙信を、崇めるような尊ぶような、そして明らかに恋をしている瞳で見つめていた彼女だ。
 尤も、其れを見たのは擦れ違うよりも短い一瞬だけで、確かめる間もなく姿を消してしまう。
 首を傾げつつ、今はとりあえず流して、慶次は館の中へと歩を進めた。


 
  陽気な笑い声が、夜半の春日山に響く。
 最初は其れこそ家臣も酒宴に居たのだが、流石に主の底無し酒に付き合う者は無いようで、夜が更けた頃には、謙信と慶次だけが酒を呷っていた。
「相っ変わらず強ぇなぁ謙信は。」
「わたくしにとってはみずのごときものです。」
 しれっと答える謙信に呆れたような苦笑を漏らす当の慶次も、其の実散々飲んでおいて未だ更に杯を重ねているのだから、かなりのものではあるのだが。
「肉や魚は食わないにしても酒はウワバミ、じゃ、とんだ生臭だと思うぜ。」
「これはさけではありません。はんにゃとう ですよ。」
 慶次が、僧門の徒である筈の謙信の破戒ぶりを揶揄すると、謙信は盃を傾けながら、慶次を眇め見るような視線で見遣り、細い笑みを零した。
 般若湯、僧門の徒が酒飲みの言い訳に使う忌み名を口に乗せ。
 慶次はまた声を上げて笑った。
「そういや、あの子は呼ばないのかい?」
 ひとしきり笑った後、慶次はふと問う。
 酒宴が始まった時からひとつだけ気に掛けていた事柄。
「……あぁ、つるぎですか。」
 盃の手を止め、心持ち首を傾けながら、問われた謙信は目を細め答えた。
 謙信の身を守る為に、人知れぬ場所で控えているだろう美しい忍の気配を確かめるように。
 其の忍びの京で見た顔と、昼間に一瞬見た顔とを思い出しながら、慶次は尚問う。
「折角の酒の席だろ、一緒に楽しませてやればいいのに。」
「つるぎはさけをくちにしないのです。わたくしがすすめても。」
 謙信の、僅かに苦笑するような口調。
 其れを聞いて、慶次は、うーん、と難しい顔をした。
 彼女の立場を考えれば、其れは其れで間違い無い行動なのだろうが、あの恋する目を見た身としては、何より彼女が一番謙信の側に居たいだろうに、と、どうしても思ってしまう。
「かすがちゃん、だっけな。……剣なんて物騒な呼び方しないで、名前で呼んでやりゃいいのに。」
「つるぎはつるぎ。よびなのとおりのありようをのぞんでいるのは、だれでもないつるぎじしん。」
 だから剣と呼ぶのだと、言いながら薄く目を閉じた謙信に、慶次は更に難しい顔をする。 
「其れにしたって女の子だぜ? 然も年頃、剣より花の似合いそうな可愛い子だってのにさ。」
「わたくしのつるぎとして、わたくしのそばにありたいといってくれる。ならばそのわたくしがつるぎとよばねば、だれがつるぎとよぶことができますか。」
 彼女を名前で呼ぶ者は多々居る。
 然し、彼女が剣と呼ぶことを許してくれるのは自分だけなのだから。
 揺ぎ無くそう言って返す謙信。
 慶次は納得しつつも、其れでも何処か苦い思いを抱いて盃の酒を干した。
「あの子が謙信に恋してるのは一目瞭然だってのに……そいつぁちっとばかり酷な想いの返し方じゃねぇか。」
 呟く独り言と共に、酒は慶次の咽喉を潜る。
「つるぎは、やさしいのです。」
 慶次の其の独り言を聞いてか聞かずか、謙信もまた独り言を呟く。
 呟きは、其の手で傾けた盃の酒に僅かな波紋を作り、そして酒が胃の腑へ流れ落ちて消えていった。
「……なぁ、謙信は、誰かに恋をしてないのか?」
 暫しの間、何杯か無言で盃を重ねた挙句、妙な沈黙に耐え兼ねた慶次が口を開く。
「こい、ですか。」
 此れ迄にも、同じ問いを慶次は何度か謙信に向けてみたことがあった。
 然し其の都度、人を食ったような笑顔だけが返ってきて、まともな答えが返ってきたことは無かったのだが。
 だが、謙信は、今回だけは何か考え込んだ表情をした。
「けいじは、こいとはどんなものだとおもっていますか。」
 ややあって、返ってきたのは慶次の問いに対する答えではなかったが、然し何時ものはぐらかす笑い顔でもなかった。
 どう読むべきかわからない表情が、酒の湛えられた盃の底を見つめて、其れから、顔を上げて慶次の顔を見つめた。
 問い返されて、慶次は胡坐の膝に肘を付き、考え。
「……うーん、俺は何時も、恋はあったかくていいもんだ、って言ってる。誰かと幸せになりたい、誰かを幸せにしたい、って思う気持ちが恋ってものだと思うんだよ、俺は。」
 俺は、という部分に力を込めて熱っぽく語るのを、謙信は、じっと見つめて聞き。
「……けいじのことばは、いつもまっすぐできもちがよいです。」
 盃の酒を一口、まるで口を湿らすように飲んでから、感心するように口を開いた。
 褒められる言葉に慶次は、そうかぁ? と相好を崩したが、すぐに自分の問いに謙信が答えていないことを思い出し、はぐらかすなよ、と口を尖らせ。
「で、謙信はどうなんだっての。」
「こいをしているかどうかをはんじるには、こいとはなんなのかをかんがえねばならないのです。」
 謙信の酒に湿る唇が、細い息を吐きながら語り出すと、慶次はどっかりと腰を据え直して耳を傾ける。
 相手が相手だ、多分、滅多に聞ける話では無い。
 一言一句聞き漏らすまいとでもするように、やや身を乗り出して。 
「わたくしのおもうこいとは、こう ということ。」
「こう?」
 目を瞬かせ聞き返す慶次に頷きながら、謙信は右の人差し指を酒に浸した。
 そして、自分の前にある膳に、酒に濡れた指で文字を書く。

 乞う

 じっと其の字に見入る慶次に、謙信は言葉を続けた。
「こいとはあいてをこうこと。すなわち、あいてをもとめほっすることであろう、と。」
 静かな口調である。
 文字から目を離して再度謙信に向き直れば、其の表情も、何時にも増して静かで穏やかだった。
「そりゃまぁ、相手が居なくちゃ恋は出来ねぇよ。」
「いえ、そうではなく。こいとは、おのれのこころのよくであるということです。」
「欲?」
「よくです。ほしいばかりのこころ。もとめるばかりのこころ。たとえばそのはてにまつものがほろびであっても、それでもこうてしまうこころ。」
 そして表情も凪のようであるのに、紡がれる言葉が盃の酒に波紋を描く。
 酒に酔うことなど無い謙信の、酔ったような何時に無い饒舌。
「確かに、恋ってやつにはそういう激しい一面もあるかもな。……でも俺は、相手を欲しいと思っちまう心も、全部が全部悪いもんだとは思わないぜ?」
「おもうあまりに、わがみあるいはあいてを、ほろぼすこととなっても?」
「寧ろ、其処まで強く恋してる気持ちを、どうやって抑えるっていうんだよ?」
「こうことを、おさえなくてもよいと?」
「其の、滅ぼす滅ぼさないってのは想った末の結果であって、恋すること自体が悪っていう理由にはならないだろ。…まぁ勿論、相手と笑い合っていられる方が幸せには違いないけど……何だ、謙信も案外真面目に恋のことを考えてんだな。」
 答え全部に納得したわけではないが、謙信の珍しい様子を見たことで、慶次はひとしきり満足した様子。
 にっと笑って、空だった己の盃になみなみ酒を注ぎ、謙信にも勧めるように徳利を突き出した。
「あんがいまじめ、とは、しんがいですね。」
 慶次の物言いに、謙信は本気で心外そうな表情をして、其れから可笑しそうに笑った。
 差し出された徳利に、空の盃の手を伸ばす。
 其の盃に酒が注がれ、口元へ寄せた時、思い出したように、膳に書いた文字を指でそっと拭った。
 黒漆の膳の上、酒で書いた文字を、濡れ散る酒の雫と帰し、そして一度だけゆらりと酒の水面を揺らしながら、盃に口を付けた。
「わたくしとて、そんなよくをあたりまえにもつということですよ。」
 ふ、と、小さく息を吐きながら慶次にそう言って、また楽しげに酒を呷った。
「そいつが謙信の答え、ってことか。」
 少々曖昧だが、目の前の此の人物から貰った答えとしては上出来だろう。
 互い、空になる盃にどんどん酒を注ぎ入れて、其の酒の呷り合いは夜の白む頃まで続いた。



「あー……さすがに最後まで謙信に付き合って呑んだのはキツかったかぁ……。」
 慶次が目を覚ましたのは昼も回った頃だった。
 未だ何処かしら酔いの残る頭を軽く振って、がしがしと髪を掻き乱しながら、陽の明るさに片目を眇め。
 呑み散らかした痕跡は、跡形も無く片付けられていた。
「……取り合えず顔でも洗ってくるか。」
 よっ、と立ち上がり、廊下へ出る障子を開ける。
 明るい陽射しの中、眼前に手入れの行き届いた庭。
 其処に昨晩の酒盛り相手が、美しい忍と共に何やら話しながら庭歩きをしていた。
「おう、おはようさん。」
「やっとめがさめましたか。けいじのあさは、ずいぶんひがたかいのですね。」
 時間のずれた挨拶を掛ければ、当然のように返ってきた皮肉。
 尤も、居心地を悪くするものではないのが明白な、軽い意地悪さに過ぎない其れに、慶次は頭を掻く。
 廊下から見下ろす位置から謙信とかすがを見ていると、一際鮮やかな二輪花が咲いているようだ、とぼんやり思った。
「……恋の花、ってやつかな。」
 ぼんやり思ったまま呟くと、かすがの頬だけがぽっと僅かに赤くなる。
 え、と目を瞬かせた時にはもう消えていたが、あれは見間違いでは無かった。
 かすがは忍、相当耳が利く筈。
 故に慶次の呟き程度でも耳に入ってしまったに違いない。
 然し其れで思わず表情に出してしまった辺り、随分可愛いじゃないか、と、慶次は密かに笑みを浮かべる。
「けいじ。わたくしはすこし、せきをはずします。なにかあれば、つるぎにきいてください。」
 傍目にはにやにや惚けているような風情に見えるであろう慶次に、謙信はそう声を掛け、そして其の場に残したかすがにも何か伝えると、其の侭庭を去っていった。
「まぁ、謙信も領主だしな……流石に忙しいだろうし……」
「謙信様は軍議に出られる。お前と違って呆けている暇など無いお方なんだ。」
 些かぽかんとした表情で謙信を見送る慶次に、かすがが呆れたように言う。
 いやそんなことは百も承知だけど、と、返しながら、先刻のかすがを思い出してまた笑いが浮かぶ。
「何が可笑しいんだ?!」
 慶次が何を思ったのかに思い当たって、かすがは思わず声を荒げていた。
「いや、かすがちゃんって可愛いよな、と思って。」
 其れは慶次のごく正直な言葉であったのだが、かすがは揶揄されたようにしか聞こえなかったのだろう。
 忽ち眉を吊り上げ、不機嫌そうな表情になる。
「かすがちゃんは謙信に恋してるんだろ?」
「なっ、何を言っ……!!」
 其のかすがに、然し何の悪気も意図も無い慶次は、あっさりした物言いで尋ねる。
 其れも尋ねると言うより、既にわかっていることの確認のように言うものだから、かすがは言い当てられた恥ずかしさで後に続く言葉も言えず、口をあわあわと戦慄かせるばかり。
「そんなの見てりゃすぐわかるって。」
 照れなのか怒りなのか、兎も角顔を真っ赤にしたかすがの様子が、可笑しい上に更に可愛いと慶次の目には映る。
 女の子はこういうところがいいよなぁ、と、笑いを和らげて目を細めた。
「私は謙信様を守る為にある……其れだけだ。」
 慶次の表情から、無闇にからかっているわけではない、ということはわかったのだろうか。
 かすがの語気が幾分和らぐ。
 きゅ、と自分の掌を握り締め胸に抱きながら決意を唇に乗せる様子は、充分に恋する少女の其れだ。
 昨夜謙信が語ったとおり、かすがは己を剣として謙信の側に在りたいと願っているのだろう。
 いや、「己はそう在りたいと願っている」と信じようとしているのではないか。
 恋を否定して、恋では無い思いで傍に在るのだと己に言い聞かせているのではないか、と、慶次は思った。 
 だから、少し胸が痛む。
「……謙信も朴念仁ってワケじゃ無さそうなんだがなぁ。」
「謙信様を悪く言うな!」
 溜息混じりに言えば、キッとかすがが慶次を睨んだ。
「いや、悪く言ったんじゃないって。昨夜色々話した限りじゃ、あの謙信だって恋については人並みに思うところあるみたいだしさ。だから俺はかすがちゃんに頑張って欲しいと……」
「あの方の目は私を見ない。」
 慶次の言葉を遮るように、言い捨てるようにかすがが口を開く。
 表情は、唇を噛み締め。
 其の、静かな、然し強い感情を孕む剣幕。
「あの方の目は……あの……──に……」
 其の後に続く言葉は、感情に口篭ったのか敢えて言い憚られたのか、慶次の耳には届かなかった。
 胸にある握り締めた掌が、微かに震えているのを、慶次はじっと見詰める。
 そんな慶次の視線に気付いて、感情に任せた独り言から我に返り、かすがは表情を隠した。
「謙信様が御命じになったことだから、任は果たす……。お前、何か用があったら呼ぶがいい。」 
 此の話はもう終わりだというように、其れだけ言ってかすがの姿は消える。
 穏やかな昼の陽差しの庭と、慶次だけが其処に残った。
 慶次は、僅かに傷ましさを滲ませた面持ちで、ひとりごちる。
「……あー、謙信もかすがちゃんも、何かどっか救われてねぇ感じなんだよなぁ……。」
 慶次はまた頭を掻いた。
 がしがしと、所在無く。
 顔を洗いに行くか、と、最初に考えていたことを思い出す。
 
 そして其処は、美しい庭と陽射しだけになった。
 


  慶次が発つ日、別れ際に謙信が告げた。
「まもなく、またいくさがはじまります。」
 其の戦というのが、もう幾度目かの、信越の戦であろうことは慶次にもわかっていた。
「……そうか。まぁ、俺としては、人を犠牲にする戦なんてのは正直してくれるな、とは思うけど。」
 風のように自由気侭な性分の慶次は、人が命と自由を奪われる戦というものを、どちらかといえば嫌っている。
 だから、戦と聞いて、其れを隠すこと無く渋い表情はしたものの、領主である謙信の立場を考えれば、慶次は其れを責める立場には無い。
 然し謙信は、慶次の言葉を、重く受け止めるように頷いた。 
「わたくしとしても、むこのたみくさをいくさにまきこむのは、ほんいではありません。」
 それに、と続けて言いかけて、言葉を切り。
「……おそらく、かいのとらとのいくさは、これがさいごになるでしょうから。」
 何処か嬉しそうな表情をして、そう言った。
 妙に印象に残る、とても嬉しそうな、表情だった。
 其の時は単に、戦が終わることができるからだろうとしか、慶次は思わなかった。

「それをけっしんできたのは、けいじのおかげです。」
「そりゃよかった。戦は好かないが、暇だったら其の謙信の決心とやらを見届けに行ってやるよ。」
「そうですね。けいじなら、みとどけにんになってもいいですよ。」

 晴れやかに笑む謙信と、そんな遣り取りをして。
 交わした言葉が何を意味するものであったのか、を、後になって知ることになるが、其の時は何をも知る由も無く。







 其の日は、あの日に似ていた。
 穏やかな空と陽射しと、美しい景色。

 慶次は、川中島に来た。
 戦場は凄惨を極めていた。
 戦嫌いとはいえ武人の端くれ。戦場を知らない訳では無い。
 然し、此れ程の凄惨さは嘗て見たことが無かったと思う。
 戦場の其処彼処に、信越どちらの軍も屍の山を築き上げている。
 過日に謙信と交わした言葉のとおり、長きに渡る龍虎の決着、其の末を見届ける為に此処へ来た。
 が、此処に来て、見届けるつもりが、見届けてはいけないような気がし始めている。
 其れでも脚は駆けた。
 戦場を見渡せば、武田の陣、其の幕屋の内に、離れていてもわかる強い剣気と覇気のぶつかり合う気配がある。
 其処へ駆け出したものの、ついに其の前に来てみれば、びり、と何かが足を留めさせた。
 躊躇を覚えながら其れでも陣の入り口まで来れば、中で将同士が切り結ぶ姿が見える。
 陣幕の内には、上杉の兵は愚か、武田の兵の姿さえ無い。
 武田信玄と上杉謙信、龍虎と称されるふたり、其れ以外には誰も、居ない。
 切り結ぶ度の甲高い音、地を震わす程の地鳴り、幾度無く繰り返される其の都度、まるで睦言を交わすように殺し合うふたりだけ。

「……そういうことか……」
 慶次は其処で理解した。

 恋とは乞うこと。
 求めて、欲して。
 其の果てが、彼我何れの滅びであっても乞うてしまうもの。
 あの夜、そう語った謙信の恋が、どんなものであるのかを。
 そして、其れが何に対してであるのかを。

「あんまりじゃねぇかぁ?」
 ぼやくように悪態を吐きながら、然し慶次は、踵を返すことはできなかった。
 覚悟しなければならなかった。
 此の「恋」が、例えどんな結末に終わろうとも。



 最早、見届けるしかないのだ、ということを。