なれをはむ

  三成にも困ったものだ、と呟いて、風呂敷包みを片手に、家康は夜半の屋敷の門を叩いた。
 屋敷の門兵が通用口から顔を出し、こちらを見て慌てたように門を開く。
 すまないな、と労いの声をかけて門をくぐれば、夜半であるということを差し引いても人の気配の薄い屋敷の空気。
 屋敷に必要最低限の人間しか置かないのは己も同様だが、それにしても、もう少し使用人を増やした方がいいのではないか、と常々思っている。
「三成、いるのだろう。入るぞ。」
 居室の前に立ち、襖越しに返答は待たない。
 そんなもの、返って来ないことがわかっているからだ。
 襖を開けると案の定、床の間を背に正座した格好のまま、微動だにしない三成がいる。
「……また、飯を食ってないそうだな。」
 言いながら室内に踏み入ると、三成の前で向き合うように腰を降ろした。
 風呂敷包みは脇に置く。
「半兵衛殿が案じておられたぞ。」
 胡坐をかいて肘を付き、呆れたように言えば、その言葉の中にある名前に反応したように三成が僅かに視線を動かし、家康を見た。
 そうだ、もう何度目だ、と考える。
 三成が豊臣の戦で失敗などしたことがないことは誰の目にも明らかだというのに、任された戦の流れが多少滞っただの、全ての敵を殲滅し損ねただの、戦果に支障がない部分のことを、まるで負け戦の責のように気にしては、自戒のつもりなのかこうやって絶食することが度々あるのだ。
「……その都度こちらにお鉢が回ってくるということも考えてくれ。」
 溜息を吐きながら、脇に置いた風呂敷包みを解く。
 包みの中には、櫃と、大ぶりの椀と、竹筒。
 おもむろに竹筒を手に取り、その上についている栓を抜いて、とくとくと椀に水を注ぎ入れた。
 そして櫃の蓋を開ければ、冷めてはいるが艶やかな白飯。
 手指を椀の水に浸し、その白飯を掌で掬い上げる。
 その掌から零れないように気をつけながら、両の掌でたちまち出来上がるのは、握り飯。
「ほら。」
 手際の早さの割にきれいに形の整った握り飯を、突き出すようにして三成の鼻先に差し出した。
 何も言わない三成は、先刻視線を動かした時からじっと外すことなく家康を見ていたが、その家康の顔を見ていた視線が、ゆっくり、動いたとわからないほどゆっくり、その握り飯に移っていく。
 三成が、口を開いた。
 鼻先に差し出した握り飯をその口元へもっていくと、もく、と、一口、握り飯を頬張る。
 いや、頬張るというより、齧るという様相だ。 
 流石に空腹だったのだろう。
 租借する顎の動きに澱みがないのを見て、家康はひとまず安堵した。
──……が。
 問題はこの後だ、と家康は考える。
 家康の考える間も、もくもくと静かに握り飯ひとつを食い尽くした三成が、次にすることは。
 指に、硬質な質感が触れた。
 それは小刻みに動いて、少しずつ移動している。
 半兵衛に命じられて何度か握り飯の差し入れをしているが、何故か三成はいつも同じ行動をした。
「……三成。あんまり強く齧らんでくれ。」
 些か困ったように言ったのは、握り飯を握った手の飯粒を掻き取るように、三成がその手に齧り付いていたからである。
 比喩ではない。
 三成は文字通り、「齧り」付いている。
 家康の手で三成の口元に近かった指は、今日は人差し指だった。
 その指先を手始めに、三成は家康の全ての指を順番に齧り、今は掌全ての飯粒を食い尽くし、更に手首に及ぼうとしている。
 最初に齧られた時は流石に驚いて振り払ったが、直後に物凄い形相で睨まれた挙句、圧し掛かられて、結局齧られた。
 握り飯を握る度に齧られるので、結局、家康も諦めて好きに齧らせるようにした訳だが、すると今度は齧られる範囲が広くなってくる始末。
 最早、握り飯と家康の手を見たら、齧らずにいられない癖でも付いてしまったのだろうか、という心配がなくもない。
 端から見たら奇妙極まりない光景であろうと思うのだが、とりあえず、餌付けした鳥が慣れて手に乗ってくるようなものだろう、と、思っておくことにした。
 親指の付け根を通って橈骨の窪みを齧り、手首を回すように小刻みに内側を齧り、尺骨側へと移っていく。
 今まで何度も齧られた結果、「痛くするな」ということだけは約束させた。
 なので、痛みはないのだが、これでもかというくらい念入りに齧られ、むず痒いような感覚ばかり残るのも、それはそれで困りものである。
 とりあえずやや腕を捻る状態だが、三成が尚も腕を捻って齧ろうとするので、捻られないように少し力を要れて抵抗すると、それ以上は捻ろうとはしなかった。
 代わり、腕の内側を、撓骨に沿って一条に齧られる。
 身体を鍛えてそれなりに筋肉を付けたとはいえ、腕の外側に比べれば、内側の肉付きは若干薄い。
 いや、肉が薄いというよりは、皮膚が薄いのかもしれなかった。
 齧る歯の硬さが、小さな爪を持つものが這い登ってくるような感覚に思わせる。
 勿論我慢できる程度だが、それでもつい思わず腕を引きそうになると、いつの間にか三成の手が、家康の掌を掴んで抑えていた。
 たったこれだけのことでも、三成が自分を逃がすまいとしているようで、家康は苦笑してしまう。
「なぁ三成。おまえ、わしを、たくあんか何かと勘違いしとるんじゃないのか?」
 肘窩の柔らかい窪みを齧る三成に、冗談めかして言うと、三成は齧り付いたまま、じろりと家康を見た。
 瞬間、僅かに痛みを含む感覚が其処に走る。
「──……つっ……!」
 家康が声を上げて顔を顰めると、それはすぐに消えた。
「……痛いのは無しだと言った筈だぞ……!」
 上腕を齧り始めた三成に、やや怒気を含んで抗議の声を上げるが、三成はまるで無視した様子で齧り続ける。
 こういう時は言っても無駄だというのは経験的に知っているが、家康も若干感情的になっていたのか、力を入れて腕を振り払い、人の話を聞け、と、言葉を口に出そうとしたその時。
 いつぞ見た、酷く怖い顔をした三成が、家康の目の前にあった。
「……黙れ……」
 今日、顔を合わせてから初めて、三成が口を開いてものを言う。
 そのまま、言葉の孕む剣幕に一瞬怯んだ家康の下顎を掴み、下唇の下に齧り付いた。
 驚いたのは家康である。
 顔を齧られるのは、初めてのことだったからだ。
 齧る歯が、少しずつ動いて下唇を辿る。
 眼球を除けば、顔の中では一番柔らかい部分といえよう其処を、齧る歯は、執拗に往復した。
 まるで、其処にある、というのを確かめるような動きで、何度も、何度も。
 やがて飽いたか、唇端を辿り、次は頬へと辿っていく。
 いつもの齧られ具合の比ではない妙な感覚が思考と行動を縛り、どういう反応をすべきか困惑ばかりが先に立った。
 齧る歯は尚も動き、下瞼の柔らかなところを齧ると、家康は強く目を瞑る。
 目は急所だ。
 それを目を閉じることで守ろうとするのは、本能的な防御の現れといえよう。
 僅かに、齧る歯が止まった。
 ややおいて、恐る恐る家康が目を開けば、三成は何か考え込むような表情をしている。
 どうしたのかと思って目をしばたかせると、その微かな動きを唇で察知したのか、思い出したようにまた齧った。
 ただし、さっきよりほんの少し、弱く。
 それに気付いて、あれ? と思う間に、今度は頬骨を齧られた。
 弱く齧られても、頬骨の部分は骨が当たる分だけ痛い。
 ああまた、と身を捩れば、今度は素直に其処から離れていく気配がする。
 やっと解放される、と、ほっと安堵したその時。
「……っぅひゃ!?」
 齧られたのは、耳朶。
 ぞわ、と背を奔った感覚は、どうにも喩えようがない。
 然も三成は、それを何度も齧るのだ。 
「三成、ちょっと! ……いや、あの、痛くはない、が……待ってくれ、それちょっと……!」
 機嫌を損ねないように静止しようと何とか考えるが、齧られる度に思考が止まってしまう為、結局まともな思考にならないで散っていく。
 いつにない反応が面白かった、のだろうか。
 三成は耳朶を齧るのをやめようとしない。
 時折、耳介を耳朶を齧りながら行き来して、カシカシ、とごく幽かな齧る音を立てる。
 その音がまた背にあの感覚を奔らせる為、家康は首を思い切り竦め背を反らしながら抵抗した。
「頼むから……っ、三成……!」
 ひきひきと、咽喉を通る息が苦しい。
 何を我慢しているのかと思うほど、身体が強張っているのが自分でもわかる。
 うっかり、多分、後から思えばうっかりとしか言いようがないほど無意識に、目尻に涙が溜まっていた。
 気付かないうっかりついでに、何か、叫んだかもしれない。
 三成が、齧るのを止めた。 
 まるで、何かから我に返ったような顔をして家康の顔を覗き込んでいるのを、家康は肩で息をしながら見上げる。
「……おまえ……当分齧るの禁止……な……!」
 呼吸を整えてからやっとの思いで出た言葉に、まるで叱られた犬のような顔をする三成を見たが、今日は仏心は出さん、と心に固く誓った。 

 然し、三成に食わせる為の飯が未だ櫃の中に残っていることを、家康は、忘れているようである。