にがぐすり

  雨の続く中の戦だった。
 折も折、季節は肌寒さの強まる神無の月の頃。
 この時期の雨は、肌に感じる温度よりもずっと冷たい。
 無論、天幕を張る本陣に入れば凌げるものではある。
 が、常に陣頭に立つことを旨とする信条が、このときばかりは災いした。
 冷たい雨を浴び続け、身体が冷え切り、そして。
「……三成が倒れた?」
 その報せを家康が受けたのは、雨の続く五日目夜半のことだった。
 確かに、この冷たい雨の中をずぶ濡れで過ごせば、疲労と寒さから体調を崩す者も出よう。
 実際、そういう報告は少なからず受けていた。
 けれど、それが三成であったということ、然も戦の最中に、という余りに三成らしくない出来事に、家康は驚きを隠せない。
「此度の戦には大谷様が御同行されておらず……」
 報せを伝える三成の側近が、消沈したように言うのを聞いて、あぁ、と、家康は納得する。
 秋の長雨に士気の落ちた両軍が、無為な膠着に陥り始めたことで、三成はその状況の打開を急いたのだろう。
 だが、いつもならそういう三成の血気を諫める筈の大谷が、今回は三成に同行していない。
 三成が大谷の病の身を案じ、然程手の掛からない戦だから参じる必要はない、と、随行させなかったのだ。
「せめて熱の下がるまではお休み下さいと申し上げているのですが、我等の言ではお聞き入れ下さる筈もなく、かといってそのような状態では此方も気が気ではなく……」
 心底気疲れしたように言う部下の様子からするところ、要するに、倒れても無理矢理陣頭へ立とうとする三成を止めて欲しい、ということなのであろう。
 それを察して、嘆息と苦笑を綯い交ぜに、家康は息を吐いた。
「……わかった。ワシが行って三成と話してこよう。」
 話を引き受け、報せを持ってきた三成の側近を労って下がらせる。
 実のところ、こんなふうに家康の許へ三成の部下が来るのは、珍しいことでもなかった。
 性格が真逆な家康と三成が、然しそれほど反駁し合う仲でもないということを知っている者達にとって、家康は三成の勘気の対処を頼み易い相手なのだろう。
 自陣の軍議を終えてから、少々の荷物をひとつに纏めると、三成の陣中見舞いに行ってくる、と侍者に言い置き、家康は三成の陣へ向かった。
 着けば、先の部下から伝えがあったのか、三成の侍者が家康を迎え出て、急場凌ぎで拵えられたらしい陣小屋の中へ案内される。
 陣小屋とはいっても、雨風を凌ぐだけを目的とした、屋根のある囲いといった風情だ。
 くるぶしほどの高さに重ねた板盾が、三畳分ほどの広さに敷かれ、其処に、当の三成が横になっている。
 その脇に、水を張った小さな手桶と手ぬぐいが置かれているが、当然のようにそれが使われた形跡はない。 
 ふぅ、と、家康は極々小さく息をついた。
 どんなに気力が満ちていても、身体がその意に添わないことなど、間々ある。
 あいつはその辺りを蔑ろにしがちだからなぁ、と、家康は小さく笑って零した。
 案内してくれた侍者に、あとはワシがやるから、と告げれば、侍者は安堵の表情を見せて一礼する。
 お願いしますと後を託され、家康は音を立てないように、三成が横になっている板敷きへと歩み寄った。
 眠っているのか、或いは熱で朦朧としているのか、近寄る家康に反応する様子はない。
 起こさぬように息をひそめて、そっと顔を覗き込む。
 其処にある呼吸は浅く、まだ暫くは熱の上がる気配がある、と判断して、家康は板敷きの端に腰を下ろした。
 置かれた手ぬぐいを手に取り、桶の中の水に浸す。
 しんなりと水の染みていく手ぬぐいを、ゆらゆらと桶の中に揺らし、その全部を濡らしてから軽く絞った。
 桶の水面から余り上げないようにして絞るのは、ぱたぽたと水の滴り落ちる音をすら、できる限りたてないようにする為である。
 それを開いて畳み、三成の額にのせると、持参してきた荷を解いた。
 開ければ、中は簡易な薬箱である。
 薬箱の中から小さな乳鉢と摺棒を、更に幾つかの薬草を取り出して、加減を見ながら調合を始めた。
 乳鉢で薬を摺り合わせる音が止む。
 音が耳障りではないか、と、時折手を止め、三成の様子を窺い、そして、目を開ける様子のないのを見てまた手を動かす、という様子が暫し続いた。
 それがどのくらい経った頃か、いつの間にか調合に没頭していた家康は、朧ろに感じた気配に、はたと顔を振り仰ぐ。
 其処には、薄く目を開いた三成が家康を見ていた。
 いつもなら涼やかに尖る目許が、熱のあることを示す腫れぼったさに覆われて、仄赤い。
「起こしてしまったかな……具合はどうだ?」
 薬を摺るのに夢中になって、つい大きな音を立てていたのだろうか、と申し訳なく考えながら、声の調子をそっと落として問いかける。
 だが、三成の反応は薄く、茫洋とした視線で家康を向いているばかりだった。
 熱があるならその反応も致し方ない、と、家康は苦笑するように眉尻を下げると、三成の額に乗った手ぬぐいが、ゆらり傾いた。
 薬を擂る手を止め、三成の傍にいざり寄る。
 額から、その手ぬぐいが落ちてしまう前にそっと取ったところで、三成が漸々声を出した。
「……これしきのことで倒れていられるかっ……」
 語気強く言ったつもりであろう言葉は、当然のように常より力無く、だが、今それを指摘しても、三成は頑として認めまい。
 そのまま三成は身体を起こそうとしたが、熱に体力を奪われている今、肩は浮くものの上体を起こすまでには至らず、そのことが三成の表情を険しいものにする。
 意のままにならない己が身に対しての、不甲斐なさ故の表情であろうことは、容易に想像がついた。
「無理はするなよ。」
 家康が、そんな三成をなだめるように言えば、三成の表情の険しさが目に集って家康を睨める。
 尤も、三成のこういう態度は常のことで、家康は気にも留めず、桶に張った水へ手ぬぐいを浸した。
 そして、すい、と三成の顔を覗き込む。
 険しい顔の三成には構わず、寝汗に貼り付いて乱雑に乱れる銀糸の如き髪を梳き上げると、家康はその額に自分の額を合わせた。
「やっぱり、まだ少し高いな。」
 家康の言うとおり、熱が高くて思考が鈍いのか、それとも思わぬ行動に毒気を抜かれたのか、三成が呆気にとられたような表情で家康を見上げる。
「あまり兵達に心配を掛けさせるなよ。」
 そっと、大きくなく響かぬように言って、家康は、額をすり寄せるように、二、三度当たる位置を変え、熱の具合を確かめた。
 三成は、そんな家康をじっと見ていた。
 やがて離れていくそのときも、じっと。
 先程、桶の水に浸した手ぬぐいを、絞って、広げて畳んで、それを再び三成の額にのせようとしたところで、不意に家康に僅かな逡巡のようなものが湧く。
 そして、水濡れて冷たい家康の手のひらが、三成の額を覆った。
 それはたとえば、三成の苦しむ原因をこの手で取り除けたら、そんな無意識の願いからの行動だったのろうか。
 三成の額にはその手の冷たさが、家康の手のひらにはその熱の高さが、触れる部分からじわり広がって、少しずつ混じ合うように馴染んでいく。
 その感覚に、水が温むように淡く微かな甘やかさを覚え、手が本来の温かさを戻しても、つい、その手を離し難くなっていた。
 そんな自分に気付き、苦笑を零して、手を離そうと身体を傾がせた家康は、然し思わぬことに阻まれる。
 三成の手が、家康の袖を掴んでいた。
「え、」
 瞬間、驚きから事態を把握しそびれた様子で、家康が間抜けな声を出す。
 その力は強くなく、けれど、離れるな、という意志を示すように、あくまでも頑なだった。
 水濡れる家康の手のひらの柔らかな冷たさが、熱で朦朧とする三成の意識を、にわかに澄ませたのか。
 何処か茫洋としていた視線は影をひそめ、代わり、その月色の目には、家康に焦点を合わせるように意思の光が載っている。
 三成の行動は、家康にとって思わぬものだった。
 こんなふうに人にすがるような行動をとるなど、常の三成からは想像だにせず、ひどく驚いた表情で三成を見つめ返してしまう。
 その間も、そしてその間を過ぎても、三成は家康の袖をじっと掴んだまま、何も言わない。
 やがて根負けしたように、起こそうとしていた身体の力を抜いて、家康は額に置いた手を緩やかに左右させた。
 最初の冷たさも熱に鈍されて既に仄暖かさを取り戻していた手は、その指先で三成の額に貼り付く銀色を掻いてはゆるゆると払い除ける、そんな動作を繰り返す。
 その動きは、むずかる子供を撫でて宥める様相にも似ていた。
「風邪はうつせば治るというし、そんなに早く治りたいなら、いっそワシにうつしてしまったらどうだ?」
 耳に穏やかに響くように、小さく柔らかく呟くように、そしてふざけたように、ついと口を突き出す。
 が、その途端、三成の眉間には深い皺が寄り、秀麗な眉目は怒気を孕んで険しくつり上がった。
「……戦の最中に貴様まで寝込んでみろ、ただでさえ捗らぬ戦が尚も滞る! 貴様に風邪などひかせてたまるか……このような失態は、私だけで充分だ……っ!」
 熱に体力が奪われ、大きな声など出すのは辛かろう状態で、獣が唸るように声を振り絞り、噛みつかんばかりの語勢で言う。
 家康はもう一度、驚いた顔をした。
 語勢にもだが、何より、豊臣の御為と口にする三成の言葉に混じった、自分に対する微塵の私情を垣間見たことに、である。
 さて三成本人は、これに果たして気付いているのかいないのか。 
「……ならば早々に陣頭に立つ為にも、今一時は大人しく養生してくれ。それが、一等早い解決策だ。」
 僅かに赤を刷く頬を隠すように、家康は空く手で口許を覆い、そう言う。
 幸い、三成からは無事その顔を隠し仰せることができたらしく、腹立たしげにふんと鼻を鳴らすのが聞こえるに済んだ。
 その機嫌はどうあれ、言うとおり大人しくなった三成の額を、微笑と苦笑と労りと困り顔とを綯い交ぜた表情をして、家康はゆるゆると撫で続けた。



  目が覚めた。
 いつ寝入ったのか、の記憶はない。
 熱の苦しさは既になく、眠る間にかいた寝汗を鬱陶しいと思える程度には、思考も落ち着いている。
 額には、温くなった手ぬぐい。
 そして、これとは違う、柔らかく冷たく暖かな感覚があったことを記憶から拾い上げるように朧ろく思い出し、 首を巡らせれば過たず、それは横に、いた。
 くぅ、とも、すぅ、とも聞き取れる、安穏な寝息をたてながら。
 暫し見遣って、三成が苦い顔をしたのは、己があれほど言ったというのに、間抜けにも転寝をしている家康の体たらくに、と、この顛末を恐らくは、己も何処かで望んでいたことに、である。 
 目覚めたとき、其処に家康がいるということ。
 それを、熱の眠りの中で夢のように思い浮かべていた己の様に、奇妙な悔しさを感じて歯噛みし、然しそのまま、奥歯の力を抜いた。
 今ならば、聞こえないだろう。
「……ありがとう……」
 口中に、吐息と声で形作った微かな言葉は過たず、己以外の誰も聞く者はない。
 普段ならこんな言葉を選びはしないが、けれど今だけは、家康自身の口癖のようなその言葉をこそ、家康に掛けたかった。
 淡い言葉は、三成の中の家康の印象にも似るまろい韻を響かせて、そしてそのまま、ひそやかに虚空に消える。
 三成は、ゆっくりと身体を起こした。
 そのまま上体を屈めると、家康の額に顔を寄せる。
 触れるか否かの際をかすめるように唇を落とせば、そのくすぐったさに浅い眠りを途切れさせたのか、んん、と気抜けた声をあげて、家康が身じろいだ。
「起きろ家康。貴様は、私の言ったことを覚えていないのか。」
 屈めた上体を真っ直ぐに戻したところで、三成はひとつ息を吸い、そして吐き出すままに言い放つ。
「え、あ? あぁ、三成起きたのか? 具合は? 熱は?」 
 響くその声に、飛び起きるように顔を上げ、然しまだ何処か寝呆けた様相を残しながら、はた、と家康が三成を見た。
 三成の指先が、容赦なくその家康の額を弾く。
「もう下がった。それより貴様、寝汚い様を晒して転寝なぞするな。今度は貴様が風邪をひいて、戦に支障を来すつもりか。もしそうなら貴様をこの場で斬滅してくれる。」
 身体の具合を尋ねる家康に、けんもほろろに返しながら。
「いつまでもこんな醜態を晒すわけにもいかん。……誰ぞあるか、支度次第すぐに出る!」
 頭を掻きながら困ったように笑う家康を睨みつけ、そして、何事もなかったように陣小屋の中に響き渡る声で、侍者を呼び付けた。