そういうメルヘン
だから、雨が降るというのは
それ自体が非日常的な出来事だ
傘はない。
もとより、買う金もないのだが。
借金の取立てからの逃亡生活で精一杯の彼に、そんな余裕は元からありはしない。
今朝方、既に空は鬱々たる曇天だったが、今し方、財布を素寒貧にしてパチンコ屋を出てきた時点では、まだ辛うじて小雨程度の降りだったが、それもほんの一時のことで、店から歩き出して幾らもしない内に、バケツをひっくり返したような降りになった。
日々の生活を、日雇いのビラ配りやらティッシュ配りやらで何とか凌ぎ、仕事にありつけない日は、パチンコ屋で店員の目を盗んで落ちている玉を拾い集めては小銭を稼いだりというような、惨めな生活がもう二ヶ月は続いている。
今日も今日とて、折角ティッシュ配りで得た今日の稼ぎを、ついうっかりパチンコに熱くなり、結局素寒貧にして出てくる体たらくだ。
此処暫くねぐらにしている廃ビルまで、走って帰れば本降りになる前には辿り着けるだろうと思っていたのだが、今になってそれが甘い考えだったと思い知る。
歩き出して幾らもしない内に、あっという間に土砂降りになった。
バケツをひっくり返したような雨の中、とりあえず視界に入ったのは、寂れた商店街の一角、既に店を畳んで久しいと思しき建物の軒先。
有るか無しかの短い破れ屋根だが、選ぶ余地もなく転げ込むように其処へ身を寄せた。
屋根に近い頭だけを辛うじて濡らさぬが精々の軒下、滝のような勢いで地面に注ぐ雨は、彼の足許へ追い討ちのように容赦無く落ちて、端に溜まる砂泥と一緒に跳ね返り、ジーンズの膝頭にまで当たり前のように泥を塗す。
「…ったく、踏んだり蹴ったりかよ…」
懐は寒く、呟く声も雨に塗れて寒く、何よりそれを如何ともし難い己の状況が、余りに寒々しい。
無駄な足掻きのように、薄汚れたシャッターに背をへばりつかせれば、ガシャン、と金属の耳障りな音がした。
背を押し付ければ、微かにジャリつく嫌な音。
シャッターには、よく見るまでもなく、砂だか煤だかわからない汚れ。
それがジャケットに、まるで拭ったようにべったりとへばりつく。
それでも、万が一風邪でもひいて、今の彼の露命を繋ぐたったひとつ手段であるバイトさえ休まなければならなくなるという事態は、どうしても避けたかった。
なりふり構わずシャッターに張り付いて雨を凌ぐ姿は、まるで、壁に叩き付けらて潰れたアマガエルのようで、言いようのない惨めな気分になる。
「…当分…止みそうにねぇな…」
散々としか言いようのない状況に、げっそりとした気分で呟いた。
溜息を吐きながら、今し方走ってきた道をぼんやり眺める。
道には、小さな川ほどにもなりそうな雨の流れ。
古びたスクリーンのノイズのように篠つく雨の中、カラフルな筈の風景が、質感だけをそのままに、浅く褪色していく。
雨雲の色を写したような、モノクロともセピアともつかない、酷く滲んだ風景。
こんな雨の時、そう、こういうときの風景は、何故かこんな独特の色彩だ。
現実なのに現実味のない、異界のような空気、その風景。
その中に、唐突に、雨と一緒に降ってきたのかと思うほど唐突に、人の姿が現れる。
何故かはっきりと、奇妙にくっきりと、コラージュのようにそれは浮かび上がって現れた、ように見えた。
思わず、瞬きをする。
彼と同じく傘を持ってはおらず、然しこの雨の中で濡れることも厭うていないようにただ歩いていて、雨宿りに走る様子も無い。
それは、白かった。
人の姿の白いものが、何処をも何をも見ぬ、無関心に似た温度の無さを纏い付かせて歩いていた。
水は異界を繋ぐもの。
ホラー映画だか何だかで、そんな言葉を聞いたような記憶が蘇る。
するとつまり、あれは雨の中に出現する幽霊か妖怪の類だろうか、などと、有り得ないと思いつつも有り得ない想像をしていると、その白いものが、何気無く、本当に何気無く、という風情で。
彼を、見た。
その瞬間、寒さからでは無い震えが、背を駆け上った。
ありえねぇ…何かわからんけど、ありえねぇ。
そんな思考だけが頭の中を巡る。
人の姿をした白いものは、僅かに首を傾げた。
幽霊や妖怪、そんな魑魅魍魎の類にしては、酷く人間臭い仕種であった。
そのまま、近付いてくる。
硬直したように身動きできず、目を見開いたまま、目の前に来る白いものを見ていた。
白いものは、近付きながら、彼をじっと見る。
そして。
「 」
何かを言った。
声を発したのだろうか、否、そもそも声だったのだろうか。
聞き取れなかったというより、自分に言葉を向けてきたのだということ自体、この状況に気を取られて把握できなかったというのが正解か。
そこに温度は無かったが、然し、奇妙な困惑が漂っている。
彼にも、その、白いものにも。
訳のわからない震えと意味のわからない困惑から意識を持ち直すまでに、そして、雨の中現れたこの白いものが、多分人間で、自分に対して何か問い掛けたという現実に行き着くまでに、暫し時間を要したらしい。
らしい、というのは、彼には全くその時間の経過がわからなかったからだ。
目の前の白いものに、上から下までよくよく目を遣る。
其処にいるのは、何処か古びた印象の地味な服を着た、自分と同じか、或いは少し年下位の、青年と呼んで差し支えない背格好をした、ごく普通の人間だった。
ただ。
白いものという印象を持った理由、今も目を離せないでいる一点。
その、尋常なく白い髪、を除けば、だが。
「…此処は?」
再度、けれど今度ははっきりと耳に届く、ほんの少し焦れたような声を、青年は発した。
「え…いや、此処って言われても…」
我に返るように辺りを見回し、電柱の看板に書かれていた町の名前をとりあえず告げる。
彼自身、この辺りはただの通り道という意識しかなく、特に地理に詳らかな訳でもない。
その様子を見て、問うた方も余り当てにならないと感じたのか、僅かに眉根を寄せる顔をした。
「…と、とりあえずそんな雨ん中に突っ立ってないでこっち入れよ…」
周りの雨脚は弱くなっていたが、まだ到底、傘なしでいられるような小降りでもない。
眼前の白い青年に、背にしているシャッターを、手の甲で示すように叩きながらそう言った。
あの白いものが普通の人間と判れば、いつまでもそんな中に立たせてはおけない。
それが自分の性分である以上、黙っていられる訳も、やはりない。
雨曝しの中で、青年が、再び彼を見る。
その視線は、彼の何をか見分しているしているような風情だったが、やがておもむろに、すっと視線が外れ、シャッターにへばりつく彼の横、並ぶように立った。
「…もしかして、お人好しでお節介なタチ?」
白い髪から雨の雫をぼたぼた垂らしながら、青年が横顔のまま言う。
「人生、結構損してない?」
揶揄のように寄越される、何処となく皮肉った物言い。
「…っせーよ…!」
妙な図星を指されたような居心地の悪さを覚え、つい思わず声を荒げて言い返し、青年から視線を逸らした。
すると、向こうの視線が自分を見る気配と、くつくつと笑う声。
其処で初めて、態よくからかわれたのだと察し、思わず渋面にむくれた彼を見て、青年はまた笑う。
雨は、もう少し降るようだ。
「……これ。」
声と共に、冷たい床に座り込む自分の目の前、放り投げられるように置かれた封筒には、万札が適度な厚みを持って入っていた。
「は? …え。な、何だよ…これ…っ!」
中を見て目を丸くしている目の前の人間のことなど既に視界に無いようで、勝手に定位置と決め込んだらしい廃ビルの窓際に座り込んで雨の降る外を眺めているのは、あの日遭遇した青年。
「……何って、宿代。」
尚も声は淡々と返ってくるが、聞きたいのは其処ではない。
「いや…宿代って言っても此処俺んちじゃないし…ってそうじゃなくて! 俺が言ってるのは、何でお前がこんな金持ってんだって話で…!」
「金を作る手段なんか、いつ何処だろうと大差ないさ。」
至極何でもないことのように言い、青年はポケットから新品の煙草を取り出し、封を切っている。
「…ま、元手は其処にあったのをちょっと拝借したけどね。」
其処から取り出した煙草を一本,マッチで火を点けながら言葉を続けた。
最初は言われた意味に気付かず、は? と間抜けな声を漏らしたが、直後不意に思い出す。
昨夜の寝入り端、この辺りに雀荘はないか、とこの青年に聞かれたのを。
そして、青年の言う「其処にあった元手」についてを。
慌てて自分の草臥れたバッグを探れば、予想通り、食い繋ぐ為にと残しておいた、虎の子の壱万円札が無くなっていた。
「おま…っ、人の金を勝手に・・・!」
「だから、その分も併せて。」
足りなかった? と、足りない訳がない封筒を指差して笑う青年に、口をあんぐりさせたまま目をしばたかせ、何か言ってやろうと思い巡らせていたが、やがて諦めたようにがっくり項垂れる。
何をどう言おうと、持ち出された壱万円札はちゃんと返ってきたではないか。
しかも何倍にもなって。
無論、理不尽さはある。
いつも自分が金を借りる時の常套句にしている、「勝って何倍にもして返す」ということを、ごく当然のようにさらりとやってのけた青年に対しての、妬みのような羨みもような複雑な感情も、若干ある。
ありはするが、下手をすればあの壱万円札とて、どうせまた今日も勝つ宛てのない無為なパチンコ代にでも消えて、それこそ食うにも困っていたいたかもしれないと思えば、それ以上文句を垂れる筋合は、ないのだ。
然し、それにしても。
どういう訳か、あの日以来、この青年は自分のところに居ついていた。
尤も、あの雨の中をまた何処かへ歩き出て行こうとした青年を、思わず引き止めたのは他ならぬ自分だったのだから、今の状況は己自身にこそその一因がある訳だが。
俺んとこで服でも乾かしていけ、なんて、何でそんなことを言ってしまったのだろう。
それについて今は後悔頻りだが、それでもあの時、放ってはおけないと思ってしまったのが己の性分なのだから、これもまたやはり、仕方ない。
だが、やはり不思議だった。
此処に連れてきてたった一日二日のことではあるが、この青年をよく知らない自分から見ても、ひとつのところに居つくような性質の人間とは到底思えないのである。
だから、未だ此処に居る理由についてはとんと見当がつかず、首を傾げざるをえない。
自分が青年に対して持っているのは、あの雨の中をまた歩き出そうとした行動そのままに、執着も掴みどころもない印象なのだ。
連れ帰ってから、見ず知らずの人間によくついてくる気になったな、と青年に言えば。
「連れてきたのはあんただろ。…どのみち、行く当てなんか最初からなかったから助かったけど。」
己の取った行動に何の疑いも、いや、そもそもこの相手が何かしでかすような人間ではないと端っから見透かしていたからついてきた、とでも言いたげな表情をして答えた。
けれどその「行く当てなんか最初からなかった」という言葉にふと引っ掛かりを覚え、改めて青年を見れば、脳裏に、雨の中の、あのコラージュの印象が浮かび上がる。
あるべき世界から弾き出され、隔離されたような、それ。
浮かんでしまったその「印象」故に、青年を追い出す機を何となく逸してしまった。
その結果が今の状況である。
だが、連れてきたのは確かに自分だが、連れてきたら連れてきたで、今度は話し掛けるにも上手いキッカケがなく、妙に気まずいというか、居心地が悪いというか。
「…そういや、名前は?」
あれやこれや考えあぐねて結局、一番ありきたりな質問で口を開く。
よくよく考えれば、連れてきてから今の今まで、相手の名前を尋ねる程度のことすら失念していたことの方がおかしいのだが。
「人に名前を訊くなら、まず自分から名乗るべきなんじゃないか?」
我ながらありきたりな問いかけだと思ったが、返ってきたのもやはり、定型句のようにありきたりな返答で、そこに自分の考えを見透かされている気がするのは、青年の口端が、微かに笑うように上がっているからだろうか。
それを見た途端、雨の中で最初にあの白さに遭遇した時の震えのようなものが再び背に奔る。
「え、…い、伊藤…開司……」
その感覚に押し出されるように、意図してのものではない声が漏れ出た。
「……ふーん。」
それに返る声には大した関心があるようには感じられないが、名乗った彼を見る青年の目は、面白いものを見るような色に満ちていた。
半身を乗り出し、軽くにじり寄るようにして、不躾に顔を覗き込んでくる。
「イトウカイジさん、か。」
先の言葉に続いた声も同様に、そこには何ら関心などなさそうな気配をしていながら、表情が余りに裏腹だった。
ヤバイ、何でかわからないが、ヤバイ。
警鐘のように、心臓が早鐘を打っている。
じり、とにじるように腰が後ろへ退ける。
「俺は、赤木しげる。」
関心を欠片も感じさせない声、それとは裏腹の表情が再度、距離を更に短くして覗き込んできた。
白い。
あの日、いや、此処に連れて来てからもずっと思っていたが、改めて思う。
どうしたって普通の人間なのに、この、印象の白さは何だ。
白い髪は言わずもがな、肌も、男女とかいう前に、人間っぽさが欠けたような色の無さ、薄い皮膚の下の血の通いすら無さそうな、その温度を感じさせない肌の薄色。
そして一見では気付かなかったが、その目にある、白とまるで真逆の色彩。
赤く透ける黒。
赤黒い、ではなく、赤くて黒いのだ、それは。
白とその色彩との対比は、目の前の人間の、ソリッドで無機質な印象を更に強める。
そんな無機質な造形が好奇心という表情に満ちているというのは、如何にもアンバランス、尚且つ,然しそれ以外には無いと思わせるほど似つかわしくもあった。
そして唐突に、それがこの震えのようなものを起こさせる一因か、と気付く。
「ま、当座の宿代も払ったし 、これも何かの縁だろうから、暫く此処に居させて貰うよ。……ね、イトウカイジ、さん。」
目の前の表情と声が、其処で一致した。
そして、非日常が当たり前のような顔をして、日常に紛れ込む。
梅雨時でもないというのに、雨は続いた。
煙草を銜えながら眺める窓の外は、アカギの知らない風景。
例え知っていたとしても特に感慨はないだろうが、そも、この「空気」自体を知らない。
廃ビルの床、ないよりましという程度の寝床を作り上げている新聞紙の束は、恐らくカイジが持ち込んだのだろう。
ボロさ加減から見てもそう新しいものでもないようだったが、然し、其の日付欄には、アカギの知らない元号と西暦が書かれていた。
そのことから、どうやら自分は「未来」という場所にいるらしい、とアカギは考える。
無論最初は、ありえない話だと思ったが、然しこれが夢でも何でもないのは明らかで、目の前にある以上否定しても仕方ない。
結局、不条理も不合理も、起きてしまえば「単なる現実」だ。
それでも多少は、この妙な状況について思いを馳せてみる。
川田組で浦部が張った高レート麻雀に勝利して、再び裏世界に名前を知れ渡らせてしまったばかりに、またキナ臭い連中がアカギの才能を欲して騒がしくなり始めた。
然し、縛られるのは真っ平御免。
代打ち料として渡された金は適当に使い果たし、残りを治に押し付けるように渡して、早々にあの街を出たのは正解だったろう。
裏社会の情報の伝わりの速さは表のそれの比ではなく、加えて、自分の目立つ風貌は、ひとつところに腰を落ち着けるには不向きだという自覚は充分ある。
幾許かの金と僅かな荷物、根無し草な無宿者の生活は思ったよりアカギの水に合い、風の吹くまま気の向くまま、彼方此方を渡り歩いた。
そんな折、やはりアカギの居所を嗅ぎ付けた組があったらしく、その筋と思しき二、三人に囲まれ、組へ来てくれととうとうと懇願される事態に遭遇する。
その気はないとさっさと追い払ったはいいが、相手も必死、後々更に付き纏われても困ると考え、その日の内に其処を後にした。
そのときも、雨が降っていたことは覚えている。
人が動くには不向きな天気だからこそ、その雨に紛れるようにして動いたのだから。
そしたら、此処だ。
いつもどおり当て処なく行き先も決めず、雨の中をただ歩いていただけなのに、何をどうしてか紛れ込んだ先が、世紀末も程近い未来とは。
「…まぁ、案外面白いかもな…」
ゆらゆらと、銜えた煙草を揺らしながら呟く。
その、面白いと思えた理由。
この廃ビルに自分を連れてきた人間のこと。
あの男の自堕落さは、実に奇妙だ。
不自然なまでに周囲を気にして、何かから逃れるようにこんな場所に身を潜めているくせに、何かを待ち焦がれているような様子を時折窺わせる。
辛うじて口を糊する為に得た金を、手にしてしまえば一発当てることに夢中になって、その日の食うことさえ事欠くような生活。
手を出す博奕の、その殆どを負けて帰ってくる。
勝てない訳ではないが、勝ってもまた次に注ぎ込んでしまうのを止められない、素寒貧になってもブレーキが掛けられない、顔や身体に傷を拵えても、それでも懲りようとしない、そんな男。
所謂ところの、金にだらしなく、典型的な負けパターンに陥るタイプと最初は思ったのだが、カイジという人間を暫く見ている内に、それについて少し違和感を覚えるようになる。
博打で身を滅ぼす人間など腐るほど見てきたアカギだったが、カイジはそういう手合いとは、どうにも「何か」違った。
感じ取ったのは、好奇心というより、アカギの持つある種の嗅覚、直感。
恐らく、この感覚にハズレはない。
だから、その「何か」が何なのか知りたくて、居座ることにしたのだ。
帰ってくるなり潰れるように寝床に転がったカイジは、恐らく今日も稼ぎの大半を使い果たしたのだろう。
その様を見ながら唐突に、アカギはこの近隣に雀荘はないかと尋ねた。
カイジは首だけぐるりと回し、疲れきった顔に胡散臭げな視線でアカギを見る。
「…何だよ、…こいつもギャンブル中毒のロクデナシ……何でこんなばっかり…」
うんざりと、よくよくうんざりとした呟きが聞こえたが、それはまるで寝入り端の寝言のような声で、実のところ、本人もそう思ったつもりなだけで、呟いた気は無かったかもしれない。
その様子を見て、つい笑いが込み上げる。
「…あんたも間違いなくそのロクデナシのひとりだろう?」
その笑いを隠しもしないのは、自分のことを棚に上げて、という意図を言外に含めてのこと。
カイジの反応は予想過たず、眠気も吹っ飛んだのか、ぎくりとした表情でこちらを見ていた。
「う、うるさい…っ! 俺は…寝る! 寝るんだ! 邪魔すんなよ…!」
人間、図星を指されると怒りの方が先に出るというが、目を逸らし、不機嫌そうに寝床に突っ伏したカイジを、興味深げにアカギは眺める。
「…で、雀荘は?」
そのまま寝たふりを決め込もうとするカイジに最初の問いをもう一度投げれば、やや間を置いてから今度は邪険そうな声で、適当に思い浮かんだらしい場所を答えた。
そして、今度こそ何を話しかけられても答えるつもりはないという意思表示のように、赤木の方に背を向けて転がる。
程無く、疲れと他人のいる緊張感でぐたぐただったのだろうカイジの寝息が聞こえ始めた。
いびき混じりのそれを聞きながら、アカギは暫く身じろぎもせずカイジの背を見ていたが、おもむろに立ち上がり、無造作に放り出してあるカイジの荷物を一探りし、部屋を後にする。
万札で膨れた封筒をカイジに手渡す、およそ半日前のことだった。
アカギが宿代と称して持ってきた金を、カイジは最初の内こそ意地でも使うまいとしていた。
が、ものの数日もすると、今日も一枚、次の日にもまた一枚、とそれを持ち出しては雑な博奕に費やしてしまっている。
そして一度流されてしまえば後は歯止めが効かず、一枚がその内二枚になり、三枚になり五枚になり、とエスカレートして、結果、自分の意志薄弱さに無駄な後悔を垂れ流すことになっている。
封筒はすっかり薄くなり、最早残るはあと三枚
それを覗き込んでは溜息を吐くカイジを、アカギは窓際の場所から観察するように眺めていた。
「…そういや、お前はメシどうしてるんだ?」
何度数え直そうとも増える筈のない封筒の中身で、果たして何日食い繋げるものかと考えながら、思い出したようにカイジが訊く。
「…適当に…。」
返ってきた答えは淡々としていた。
だが、封筒の中身を使った様子はなく、さりとて、食いっぱぐれて腹を空かせているような様子も、アカギにはない。
霞でも食って生きてんのか…?
思わずまじまじとアカギを見てそんなことを考えたのは、最初にアカギを見たときの印象が未だ尾を引いているのだろう。
本当に人間だと認識してからも、その印象は強烈なのに現実感が薄く、表情がない訳ではないのに、感情が読めない、何を考えているかわからない。
「俺だって飯くらい食うさ。」
自分を見て考え込んだカイジを見て、アカギが言った。
考えを見透かされたカイジがぎくりと表情を強張らせると、アカギは少し考えるふうな間を置いて、窓の外に視線を向ける。
外は今も雨。
尚暫く考えていたが、再度カイジに視線を向け、こう言った。
「…なら、種明かししようか。」
意味がわからずにカイジが怪訝な顔をすると、アカギは薄く笑いながら立ち上がり、そのまま、部屋の出入り口に向かって歩き出す。
カイジの目の前を通り越していくのを視線で追えば、アカギが背越しに振り向いた。
その表情が、カイジに付いて来いと示している。
何なんだ一体。
訳がわからないまま、その表情に促されるように立ち上がったカイジは、封筒を握り締めたままアカギの後に付いて部屋を出た。
部屋を出て、廃ビルを出て、雨の中に出て。
アカギは、雨に濡れるのも構わず歩いていく。
「お、おい、何処行くんだ?」
濡れっぱなしで風邪ひくだろ、と、抗議しても、アカギは全く構う様子もなく歩き続けた。
歩き続けて、やがて立ち止まったのは、一軒の雀荘。
不機嫌な寝入り端にカイジが教えた、その場所だった。
「え……此処で、メシ調達してんのか…?」
カイジがぽかんとした表情でその雀荘を見上げて言う。
と、今度はアカギの方が呆気にとられたような顔をした。
次瞬。
くっ、くくく、と笑いを堪えきれなかった様子でアカギが噴き出す。
笑われた当の本人の方は、何故笑われたのかがわからず、意味もなく自分の周りをきょろきょろと見回して困惑頻りだ。
流石に大声で笑いはしないが、おかしくてたまらないという表情で笑うアカギに、カイジに反発心が湧くのも当然といえば当然だろう。
「いや…だって、お前がメシどうしてるかって話で、その種明かしって言って此処来たらそう思うじゃねーか…!」
そう言ってむくれるカイジを見て、アカギは更におかしそうに笑い続けた。
そのまま一頻り笑って、落ち着いたのか笑い声は止んだが、表情は楽しげなままである。
「…面白いこと言うんだな。」
アカギは言いながら、雀荘の扉に手を掛けた。
「いや…確かにこんなとこでメシの調達なんてしたら割に合わないだろうけどよ……って、え、まさか、お前…」
その言わんとすることにやっと気付いて、カイジははっとアカギを見る。
キィ、と微かに鳴る扉。
「…言ったろ。金を作る手段なんか、いつ何処だろうと大差ないって。」
開く。
あの扉を開けたとき、一緒に何か別のものも開けてしまったのだろうか。
其処で起きたことを間違いなく自分の目で見たというのに、それを俄かには信じられない自分がいる。
アカギの打つ麻雀は、カイジの知る麻雀の範疇を超えていた。
配牌はともかく、イカサマをしている訳でもないのに、ゴミ手が、ほんの数順巡る間に劇的に大きな手に変わっていく。
然も、それをまるで何でもないことのように、アカギは淡々と打ち、淡々と勝つのだ。
カイジはアカギの対面に座ったが、場が回れば回るほど、周りがアカギに呑まれていくのを目の当たりにすることになる。
無論、その卓を囲む中にいる以上、自分も点棒を吐き出していくのを免れないのだが。
「なぁ、お前さんもしかして、雀プロかい?」
カイジの箱の底が見えかけた頃、アカギの下手に座っていた男がそう訊く一幕があった。
尤も、プロはこんなとこ来ないでしょ、と、アカギはそう笑って答えただけ。
全部が全部を大勝ちするのではなく、一見何でもない打ち回しで、時折周りにも勝ちの目を見せつつ、然しアカギ自身は決して大きく振り込まない。
手堅いスタイルなのかと思いきや、危ない局面の危ない牌でも平気で切って、当然のように通してしまう。
そして、それ以上に有り得ない引きの強さは、理論やセオリーの更に上、それら一切合財を全て飛び越えて存在するようだった。
アカギの尋常でない勝負の仕方を見ていると、自分が負けているということさえ、しばしば忘れそうになる。
打ち続けている内に、カイジの背に、寒さからではないあの震えが、みたび奔った。
何で今? とカイジは自問する。
このくらいの博奕の負けなんて今更珍しくもない、それなのに今?
何に対して起きた震えなのか、カイジは考えた。
考え始めて、不意に、この感覚に似たものを前にも味わったことがあることに思い至る。
船、そして、城。
この震えは、あれら異常なギャンブルをしたときに感じたものに似ているのだ。
無論、あれとこれは程度が違う。
大金も、自分の身体も、況してや命も賭けていない、単なる市井の遊びレベルの麻雀に過ぎないというのに。
アカギが牌をひとつ切る度に、起きる震えがカイジの指先にまで届く。
──これは、気配だ。
負けて追われて逃げて隠れて、身動きも取れず曖昧糢糊とした今の日々で、カイジが最も飢えているもの。
一八勝負、生き死に博奕、デッドオアアライブ、そういうものの気配が其処にある。
弾かれたように、カイジはアカギを見た。
その視線の先で、アカギは、カイジを見ていた。
薄く細い笑みを浮かべて、最初から。
「…ロン。」
アカギの声が、卓上に刺さるように響く。
瞬間、カイジの中で何かが反転するような衝撃。
振り込んだのが自分であるという現実に引き戻されるまでの僅かな間ではあったが、カイジはその感覚から抜け出せなかった。
いや、現実に引き戻されても尚、まだその感覚は燻っている。
やがて夜明け間近、他家がラス半の声を上げてその勝負は終わった。
賭金の清算後、カイジとアカギ以外の面子が卓を引き上げ、二人が残る。
「…ほら、メシ代なんかすぐだよ。」
勝負はつまらなかったけど、とアカギは事も無げに言い、手にした金をカイジの胸ポケットへ押し込んだ。
カイジはくしゃけたそれをポケット取り出して、一枚一枚律儀に畳み直す。
レートの高い卓だったとはいえ、たかだか数時間の勝ちにしては随分毟り取ったもんだ。
自分の負け分も含まれるそれを複雑な心境で見ながら、思い出すのは、あの感覚。
「……お前、何なんだ…?」
先刻感じたそれを、確かめたい、という衝動が増すばかり。
「何って?」
「…プロじゃないのはわかる。プロはこんな打ち方しねーよ……」
こんな、抜き身の刃のみたいな気配、と言葉を続けたカイジを、アカギは興味深げに見つめている。
表情も心なしか、喜色の色を濃くしているようでもあったが、カイジは気付かなかった。
「でも、…麻雀で切った張ったしてる…んだろ?」
カイジの問いに答える声は返ってこなかったが、アカギが唇を笑ませたことで、それを肯定しているのが知れる。
奔る震えが、指先に到達した瞬間を思い出す。
あれは震えに似ているが、震えではない、熱だ。
「…覚えがあるんだろ? その感覚。」
感覚を思い出して自分の指先に目を遣ったカイジに、アカギが言った。
え、と振り仰げば、見透かす視線。
「あんたは匂いが違う。……あんたは、死線を越えたことがある人間の匂いがする。」
それを言うアカギの、嬉しそうな表情はどうだ。
アカギの口から出た、死線、という言葉にカイジはぎくりとする。
頬骨に乗る傷、切り取った耳の傷、軍手をはめた左手の指の傷、それらがその言葉に煽られるように、熱を持って疼き始めた、気がした。
アカギが、席を立つ。
遅れて同じく席を立とうとしたカイジの横を、アカギが通り過ぎるとき。
「自分を死線に晒して、死線を越える……それが好きで仕方ないんだ、あんたは。」
ひそりと含み笑いするような囁きを残して言ったのを、カイジは茫然と聞いた。
どれだけ、何処まで。
見透かしているのか、見透かされているのか。
「……まだ降ってやがる…」
外は、来た時より少し強い雨足。
そして来た時と同じように、その雨を厭うことなくアカギは歩き出す。
強い雨でないとはいえ、充分濡れネズミになれる雨の中を、先に歩き出したアカギを追うようにカイジが付いて出た。
「…また… お前、本気で風邪引くぞ!」
帰り道にも、来た時と同じように抗議の声を上げつつ、然しカイジは来た時とは違う行動に出る。
小走りでアカギの前に出ると、その腕を掴んで進行方向を変え、そのまま有無を言わさず、近くのコンビニへと向かう。
「…ちょっと待ってろよ。」
入口付近でアカギを待たせ、カイジは店内で透明なビニール傘を二本買って出てくると、その片方をアカギに差し出した。
「ほら。」
差し出された傘を見て、それからカイジを見て、アカギは暫し無言。
「…ほらって言ってるだろーが!」
声を少し荒げたのは、反応薄いアカギの様子に、思わず短気が出たのだろう。
カイジは意地になったようにアカギの手を取り、其処に傘の柄を握らせた。
アカギはまだ無言で、その傘を見ている。
入り口付近で立ちっ放しな彼等の所為で、コンビニ入り口のセンサーが鳴りっ放しだ。
そのうるささに、少々迷惑そうな顔をしている店員にへこへこと何度も頭を下げながら、アカギの腕を取ってコンビニを出た。
急いでビニール傘を開けば、その表面、雨が透明な無数の模様を作る。
大の男が入るには小さい使い捨ての安物傘だが、カイジにとっては贅沢品に近い気分だった。
「…早く傘差せよ…濡れるっての!」
振り返れば、アカギは物珍しそうにビニール傘を眺めているばかりで、未だ傘を差していない。
段々と痺れを切らしたカイジは、自分の開いた傘をアカギに押し付け、アカギの開いてない傘と取り替える。
その行動を、されるがままにして見ていたアカギは、自分の手にある傘、その透明なビニールの向こう側の空を眺めて、不意に笑い出した。
「は? …なっ…何笑ってんだよ…っ?」
唐突な笑いに面食らったようにカイジが言えば、それもおかしかったのか、アカギの笑い声は止む気配もない。
何がそんなに面白いのかと鼻白んだカイジだったが、まぁいいか、とふてくされるのを早々にやめて、もう一本を開いて差す。
ぼつぼつと、傘に雨垂れの落ちる音。
狂騒のようなあの熱は、今はゆるゆると冷めて。
古新聞と古毛布を積んだ貧相な寝床は、現在一人の人間の占領下にある。
結局あの後、風邪を引いた。
「……馬鹿は風邪引かないってことか…」
「だっ、誰が馬鹿だっ、誰が!」
寝床の占領軍は、アカギである。
熱が出た以外に特にキツイ症状がないのは幸いだったが、どのみち医者になど掛かれる筈もないのだから、ひたすら寝て養生するより方法はない。
尤も、身体は熱の所為でだるいが、かといって、毛布にくるまってただ寝転んでいるだけなのも退屈なのは確かだ。
「熱があるときは身体冷えたら駄目なんだよ! 大人しく寝てろっつーの!」
熱で口の中がどうにも不味いが、口寂しさに煙草を吸おうと寝床から起き出す。
と、それをカイジに見咎められて、即座に寝床に戻される。
然も、ぐるぐると毛布に巻き込まれて、まるでミノムシか何かのようだ。
「……あんた、ホントにお節介なタチなんだな…」
わかってたけど、と呆れ半分笑い半分で呟くアカギの声は、カイジには届いていないのだろう。
そのカイジがコンビニのビニール袋をガサガサと探って、適当に買ってきたけど、と差し出したのは、小さめの丼もの弁当。
こういうときは食べることが億劫になるということを考えて、比較的食べやすそうなものをカイジなりに選んできたに違いない。
とりあえず食えるもん食っとけ、ということらしいが、口の中が不味くて食欲が湧かない、と差し出されたそれを断った。
すると、途端にカイジがしょぼくれたような表情をする。
薄々予想はしていたが、その反応があまりに予想どおり過ぎて、何だよその捨てられた犬みたいな顔、とアカギは思った。
勿論、口には出さなかったが、うっかり笑い出しそうになりそうになったので、代わりに、何か水分か冷たいものはないか訊ねる。
すると、その顔が一変した。
「それならポカリ買ってきたし、…あ、あと、これ…っ!」
構って貰って千切れんばかりに尾を振る犬みたいな顔で、またガサガサと袋を探り、取り出したのは、小さなプラスチックカップ。
よくは見えなかったが、白っぽいような黄色っぽいような中身が見える
「俺が小さい頃、熱出すと、いっつも親にアイスとかシャーベット買ってきて貰っててさ。何つーか…熱出した時だけの我侭っていうか、贅沢っていうか、…まぁ、そういう感じなの思い出して買ってきた!」
嬉々としてそんなことを語り始めるカイジが、本当に小さい子供のような顔をしていて、妙におかしかった。
カイジは、アイス用の木匙を取り出し、カップの蓋を開けて、中身にざっくりと突き刺す。
まるでスコップで砂遊びをする子供、などと漠然と思っていると、薄白い塊が載ったスプーンが、アカギの目の前に突き出された。
一瞬考え込んだがすぐ、あぁ、と納得する。
アカギが、あー、と口を開けば、意図したものが通じて嬉しかったのか、カイジは満面の笑みでそれをアカギの口に放り込んだ。
この光景は奇妙だが、然しそれほど悪くもない。
そんなことを考えた間も、雛鳥に餌を含ませる親鳥宜しく、カイジは甲斐甲斐しく木匙をアカギの口に運ぶ。
何の味かは今ひとつわからないが、雪を口にしたときのような柔らかい食感と、甘過ぎない柑橘の香りがするのはわかった。
熱にぼやける思考を、ひとときすっきりとさせるその冷たさが、今は確かに心地好い。
半分ほど食べたところで満足し、もういい、と告げる。
残った中身をどうしようか悩むふうのカイジが、仕方なしにその残りを食べ始めると、アカギは再び寝床に転がった。
一気に食べ尽くそうとして頭痛が起きたらしいカイジが、顔を顰めてこめかみを押さえるのを、寝床からぼんやりと見る。
「……そういうの初めて食ったけど……旨いな。」
ぽつ、と言いながら、今はミノムシになることに甘んじてもいいと考える程度には旨い、と確かに思った。
「あー、初めて? もしかして甘いモン好きじゃなかったのか?」
「…いや、俺の時代にはそんなものなかったから。」
無理に食べさせてしまったのではないかと不安げに顔を曇らせたカイジに、そういう意味じゃない、と笑って答える。
「は…? ……じだい? お前、何言ってんだ?」
「…熱出して寝込んでる病人の話なんか、まともに聞かなくてもいいよ。」
勿論、こんな突飛もない話をすぐに信じる訳もなかろうから、こいつ何か変なことを言い出したぞ、という顔をしたカイジの態度はごく当然だと思った。
信じなくてもいい。
今はそういう話をしてみたいだけだ。
「…まぁ、俺はあんたの生きてる此処より、多分三十年くらい前の時代の人間でね……だから…透明な傘も、そのアイスクリームみたいなやつも…初めてなのさ。」
俄かには納得し難い話をし始めたアカギを前に、どういう態度を取ればいいのか困っているらしいカイジに、別に信じなくてもいいよ、と、笑いながら言う。
「俺の時代は、もっと空気がぬるかったが、此処は緩い。…が、ぬるくはない……寧ろ、冷たい。」
尚も口から出るのは、とりとめない話だ。
ばらけた思考のまま喋っているのは、確かに、熱の所為もあるかもしれない。
「人を信じるばっかりで、裏切らない人間…裏切られても、裏切られ続けても、自分は裏切らない人間…あんたは恐らく、そういう人間で…だから、この冷たい空気の中で死に体みたいになってる…」
昨夜、麻雀を打ちながら、感じたこと。
「…でも。あんたはギリギリの瀬戸際で、負けない。…理不尽を理不尽として受け止めて、相手に自分を喰らわせて、いずれ腹から喰い破る、そういうタイプ…。」
アカギが、す、と目を細めてカイジの顔を見れば、其処には、ぎょっとした表情のカイジがいた。
カイジは自分自身という存在について、余り知らないのだろう。
他人から自分の知らない面を聞かされるというのは、果たしてどんな気分なのか。
「……お前、何なんだ…?」
昨夜、麻雀の後に口に出した言葉と、一言一句変わらない言葉が、カイジの口から出てくる。
何を知ってるのか、と続けて口に出かかって、然し。
「…まともに聞かなくていいって言ってるだろ。」
再度、今度は韜晦するようにアカギは笑った。
人の内側を暴くのは奇妙に楽しく、身体の熱も相俟って、酷くハイになっている自覚がある。
況してそれが、自分に「何処か近いもの」であるのならば尚更だ。
そう、近い、何処か近い。
全く違うが、何処か近い。
カイジに覚えた直感はそれか、とアカギは其処で納得した。
だから面白い、と。
「……喋ったら疲れた…」
一頻り笑った後に、アカギは小さく息を吐いて呟く。
「…ちょっと待てよ…っ、勝手に喋って思わせぶりなこと言うだけ言ってはぁ疲れた、じゃこっちの気分が収まらないだろうが…!」
そこでカイジの言うことは尤もだ。
が、アカギはそれを無視する。
「なら、次はあんたが何か話せよ。…例えば、その軍手の中の手についてとか。」
代わりに言葉で指し示すのは、カイジの左手。
途端、う、呻いて思わず左手を隠すような動作をしたカイジに、冗談だよ、とまた笑えば、からかわれたらしいということを理解して、この野郎、とアカギの肩を揺さぶった。
ニ、三度、揺られると、軽く眩暈が起きる。
「…熱が上がってきたらしい……さっきの、まだある?」
その眩暈を追い遣りながら、アカギは目で先刻のプラスチックのカップを探してカイジに訊ねたが。
「……あ…? さっきのって…そんなのもう溶けちまってるぞ…?」
カイジが指差した先には、透明な水密と化した氷菓の残骸。
雪のような冷たさはとうに失われているだろう。
アカギは僅かな落胆を顔に載せたが、それなら仕方ない、とまた毛布のミノムシを決め込んだ。
「…熱上がってんのか…?」
毛布包まって寝転がっているアカギの顔を、カイジが心配そうに覗き込んでくる。
ついさっきまで、こちらに対してオドオドしたり不審がったりしたくせに、次の瞬間には当たり前のように他人の心配なんてする人間。
筋金入りだな、と、また笑いが込み上げる。
一応、こらえようとは思ったのだが、感情の自制が今ひとつ緩んでいるようで、こらえきれなかった分は笑い声になって小さく漏れた。
「ぁあ? お前…また笑ってんなっ…」
その声を聞きつけたカイジが、口をへの字に曲げながら、不機嫌そうに。
如何にも不機嫌そうに、アカギの横に寝転がって、その笑い声を毛布ごと抱え込む。
「……熱上がってんなら、肩冷やすなよ…?」
それだけ言って、後はだんまり。
しんとなれば、聞こえるのは外の雨音のみ。
人間があたたかいということを随分久し振りに感じた気がした頃、アカギの意識は眠りに落ちた。
雨足が弱い。
降り続いていた雨が、そろそろ上がりそうな気配を見せている。
アカギの熱は丸一日寝て下がり、カイジがわざわざ世話を焼く必要もなくなった。
流石に心許ない懐具合が気に掛かり、カイジは、数日さぼった日雇い労働を再開したが、その仕事の間中、気付けば半ば上の空で過ごしている。
アカギが熱に任せて言った(とカイジは思っている)言葉が、どうにも頭を離れない。
三十年も前の人間だの、現代が物珍しいだのという話は話半分でいいとして、問題は、カイジ自身について、だ。
何故あんなに、自分自身についてアカギは知っているのか。
いや、知っているというのも変だ、と思う。
アカギはカイジを知ってなどいない。
アカギは、アカギが見たまま思ったままのカイジの像を、言葉にしたに過ぎない。
そして、それが単に、驚異的な確率で以て実像に一致していたというだけのこと。
だが、それを考えれば考えるほど、本質を見透かされ抉られたことに動揺している自分にも気付かされる。
震えのような熱の、あの感覚は、ギャンブルしている時のそれだ。
ならばそれを引き起こすアカギは、カイジが求めて止まない「ギャンブルそのもの」だといえるのではないか。
そんな考えに思い至った瞬間、ぱっと何かがカイジの中に弾ける。
「…! 俺は、ギャンブルがしたいのか…っ?」
思わず、それを声に出していた。
逃げ隠れするばかりの生活の中にあって、久しく感じることのなかった飢え渇え。
否、本当はずっと感じていたが、自堕落な生活で麻痺させていたに過ぎないそれを、アカギによって呼び起こされたのだ。
もう一度、あれをもう一度。
カイジの、ギャンブルを求める心が、ゆるりと頭をもたげ始める。
金が欲しい。
名誉や地位が欲しい。
ギャンブルをする理由は大概そんなものだ。
勝ちさえすれば得られるそれを欲しがらない奴など、殆どいないだろう。
が、自分が何より欲しいのは、それらを賭けて相応しい「ギャンブルそのもの」なのだ。
自覚してしまえば、その渇望はカイジの思考を、加速度的に侵食する。
「…は…ははっ……そうだ、そうだよ……俺は、ギャンブルがしたいんだ…っ!」
意識せず漏れる笑い。
口の中は乾いて、声は縺れ。
──自分を死線に晒して、死線を越える……それが好きで仕方ないんだ、あんたは。
アカギの言葉が、カイジの越えてきた死線の数々に重なって頭の中に繰り返し響いた。
得る為には、動かねばならない。
逡巡あったものの、結局、カイジは遠藤に連絡を取ること決めた。
日雇いの仕事のことなど、もう当に頭から吹っ飛んでいる。
遠藤が帝愛につながる人間である以上、連絡を取るのは危険極まりないが、カイジが求めるギャンブルを知っていそう人間など遠藤以外に知らないのだから、できる方法はそれしかない。
取立てに見つからないようにするのは少々難儀するだろうが、今のカイジは、心配事よりもギャンブルへの希求が勝っていた。
頬が、耳が、指が、その傷が疼く。
今ならこの傷の、自分の存在証明を堂々と、アカギに話せる。
気付けた切っ掛けであるアカギにこそ、聞いて欲しい。
カイジは、走り出した。
雲が薄くなり、空が明るさを持ち始める。
多分もうすぐ止むんだろう、とアカギが考えていると、唐突に、そろそろ頃合、という言葉が浮かんだ。
雨が止む、それが帰り道、と。
根拠も確証もないが、其処には既にそんな確信が生まれている。
この数日間、すっかり指定席だった窓際から、ゆっくり立ち上がった。
「挨拶は……まぁいいか…」
呟けば脳裏に過ぎる、この部屋の主の顔。
目を瞑れば思い出せる程度には覚えてしまっている自分に、苦笑する。
部屋を出て外へ出て、暫しの宿であったその廃ビルを見上げた。
──出来れば、あんたの、死線を越えてしまえるほどぎらつく目を、見てみたかったけど。
そんな思いを少し残して、アカギは踵を返した。
行く当ては相変わらずない、というかこの先も、自分にはないだろう。
自分の、今その瞬間に在る場所、それが全て。
カイジに言った言葉は、自分に対して言ったようなものかもしれない。
自分を死線に晒して、死線を越える。
それが好きで仕方ないのは、結局アカギ自身だ。
空は雨雲が切れて明るさを取り戻し、僅かな残り雨が光るように降っている。
道の小さな水溜りを踏めば、空を映すその足許もあえかに光るようにさざめいた。
その水溜りの水紋が収まった頃、反対側から走ってきた者の足によって、再び水面が乱れる。
息せき切って、廃ビルへ入っていく男の後ろ姿が一瞬、その水溜りにも映った。
つまり、雨が上がればただの日常
其処には最早、非日常は存在しない
あぁ、そうだ、此処だ。
何故今になって来ようと思ったのか、その理由は自分でもわからない。
今日この日まで運良く生き永らえてみて、記憶にあった日付を辿ってみたくなった、それだけかもしれない。
其処には、酷く懐かしい、新しい痕跡。
ぞんざいに積み重ねられた新聞の束とボロ毛布、小さなプラスチックカップ。
窓際に置かれ、その口からあふれそうになるまで煙草の吸殻の詰め込まれた、ビールの空き缶。
そして、二本の透明なビニール傘。
あれからどうしたのか。
急に消えた自分を探したろうか。
それとも、勝手な奴と憤慨して、さっさと忘れてしまったろうか。
どちらでも、いや、もうそのどちらでさえなくても構いはしない。
そのまま暫く、其処を眺めていた。
「……さん、赤木さーん、そろそろ時間ですよ。」
「あぁ、今行く。」
遠くから呼ばれる声に返事を返し、其処を後にする。
──あんたは、強いから勝つよ。
餞のような呟きを、其処へ残して。